9月16日。
夏休みの自由研究って大事だなあと思った。いま修士論文を書こうとしているけども、基本的には小学校の夏休みの自由研究の延長だろう。
文献重視か、観察重視かの違いはあるけども、自分で問いを立てて、それに向かって調べていく。
修士論文が完成したのちも、自分の今後の人生で自由研究は絶対に続けようと思う。発表するかどうかは置いといて、本を読む動機になるし、なにより知ることは楽しいぞ。
。
ひとつ思い出したことがある。前にここでも紹介したかもしれないエピソード。
高校で、OBの講演会があったときに塾の先生が来た。僕は一切知らないが、そこそこ有名な人らしい。
受験を控えた高校三年生向けだったと思う。1時間くらい話をしていた。残念ながら二つの言葉以外の全ては忘れてしまった。しかもそれも講演会が終わった後の、ちょっと話を聞きたい人が集まった非公式の場において。
一つは、賢い人間は常に答えがない問題を考えつづけている、ということ。常に頭の片隅にその難しい問いがあるそうな。
一つは、僕がちょっと偉そうに夢を語って、実現するためにはどうしたらいいかと尋ねた、とりあえず勉強することだと言ったこと。
いまになってその意味がようやくわかった。頭のどこかにい続ける問いのことも、とりあえず勉強することも。
ある意味、夏休みの自由研究をし続けろということなんだと思った。
。
なんでこの体育館の塾講師の講演会後の談話会のことを覚えているのか。体育館という場所、ぽつぽつと何人か残っているあの光景。
場の記憶が付箋を貼られている。
「体育館」というキーワードでも、「講師を囲うように残った何人かの生徒」という光景でも、「答えのない問い」という概念でも、それにあたる何かが日常で提示されるとパッとフラッシュバックするようになっている。
。
最近の僕の「自由研究」は記憶がテーマだ。修士論文でも使うつもりだけど、あまり立ち入ることができない。というのも、科学的に第三者からも同じ結果が得られる確証のある話じゃないから。だから「自由研究」くらいでいい。
今日読んだ本で、さっきあげたような「場の記憶」があげられていた。
記憶を特定の場所への設置することで引き出せるようにする。心理学者のルリヤって人が、シェレシェフスキーという記憶術士の分析の末に導き出した記憶方法だそうな。「ヘレンニウスへ」という著者不明の著作でも存在する、昔からある記憶方法なんだと。
特定の場所に記憶をおく。
何世紀も前は、抽象的な空間、自分が思い浮かぶイメージの世界にシンボル化した記憶をおくようにしたそうな。さっきのシェレシェフスキーという人は、慣れた街をイメージして、その街の至る所に記憶のシンボルを置いて、街を歩くようにして記憶を引き出したそうな。
これかなり面白い。今日、少しだけやってみたけどなんともまあ不思議な気分になる。ゲームでもやってるみたいな。全部自分の世界なのに、外からの刺激を待つみたいな。
。
夏休みの自由研究をしなさいという教えを与えてくれた、謎の塾講師。
それをいまでも思い出せるのは、僕が彼を馬の記憶のなかにとどめているから。
そしてそれが僕の自由研究になる。
なんだかよくわかんないけど、学ぶってのはおもしろいな。
。
戦闘力160日目
1106(+7)
勉強+4
その他+3
中学校の自由研究は、パソコン使って雷の発生を調べて適当なレポートにしたなぁ。その元はWikipediaだったと思う。
なんともまあ適当な自由研究でしたな。
自分の子供が自由研究するときには、きちんと問いを考えるように促したいものだ。というか常に問いを与え続けるというのはどうだろう?
弁証法的に?