9月24日。
愛があるというのは、マイナスを受け入れるだけの懐の深さがあるということ。そういう結論に友達と至った。
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その友達は、伝記を読んである人を好きになった。ほかにもYouTubeやらなんやらの解説動画を見てその話をよくしてくれる。
それ自体は素晴らしいことだけど、その話はまだまだ深掘りされるべきだろうと思っていた。というのも、彼自身の考えがまったくそこにはないから。伝記であれば監修した人、YouTubeであれば動画を作った人、そのひとの解釈である。それ自体は面白いけど、君が話す必要性はない。
面白いのであれば、なんで面白いのかを自分の視点から語ってほしい。それが俗に言うオリジナリティだと思う。
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じゃあ自分の視点ってどうやって形作られるのか。平たく言えば、どれだけそれに向き合う時間をつくったのか。それに尽きると思う。
好きこそ物の上手なれっていうのは、好きであればやめろと言われてもやってしまう。だから上手くなる、ということなんだと思う。つまり絶対的にかけてる時間が違う。
かけてる時間が多ければ多いほど、情報量が増えてくる。情報量が増えれば増えるほど、美しい情報と目を背けたくなる情報が出てくる。
そして、その目を背けたくなる情報でさえも美しいと思うようになる。
それが愛なんじゃないかという話であります。
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ある聖人をいいなと思って語る時、まだ情報が足りないな、と思う時点であまり刺さってないんだと思う。好きでしかたなければ勝手に時間を作ってしまうから。
見栄だったり、建前だったりで好きなだけで、本当は違うところが好きなんだと思う。好きな私が好き、という恋に恋してる状態。
本当に好きであるならば、最初は自分が好きであることに気がつかないものな気がする。そして、好きであることに気づいて狼狽し、そして愛になる。
昔の建前で生きてた自分に対して、姉貴が吐き捨ててきた言葉でもある。そんなに好きならなんでなんにも出てこないんだ、おまえほんとはそれのこと大して興味ないだろう。
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ということで愛っていうのを、無意識に時間を使ってしまっていて、そしてその末に見えた全てを認め抱き抱える。だと思うのです。
対物でも、対人でも変わらないと思う。
恋に恋するのも必要だろうけど、それは辛いだけよ。
僕の解釈に過ぎないので、真の愛ではないでしょう。僕にとっての暫定的な愛の意味はこの話です。
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戦闘力168日目
1151(+5)
勉強+3
その他+2
逆に、嫌いだったけど何度も会ううちに好きになることもある。あたしにとってのチョコミントがそうよ。嫌いだったけど、なんでみんな好きなのか知りたかったので食べてたら、好きになっちゃった。
ザイオンス効果っていうんだっけね。時間は不思議なものですな。