10月1日。
記憶の勉強をしはじめてから、自分の記憶について考えるようになった。
昨日の話は重いような感じだったので、今日は訳のわからない話にしてやろう。
理解できなかったこと。理解できてないこと。
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中学一年生の英語の授業で習う、主格の話。
weが一人称なのが理解できなかった。
Iが一人称なのは、我/私に適応する。わかる。
でも、weという別単語が我々/私たちに適応するのは意味がわからない。Isで私たちならまだわかる。日本語と同じ形。
つまり、日本語で僕たち私たちっていう時は、結局集団の中の私という存在が前提にあるんだと思う。私という存在は他でもない私であって、そのまわりにいる友達とかはその他多数みたいな。自分だけ輪郭がはっきりしてて他の人たちはコナンの犯人の黒ずくめみたいな。
でも英語だというweという単語でIという個の存在がない。自分も他人も同列。自分がくっきりしていれば、周りも同じくくっきりしてる。自分がただの黒ずくめであれば、周りも同じく黒ずくめ。
そういう、自分からの目線の発生源の感覚を掴むのが難しかった。
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世界史でアフリカの扱いがほとんどないこと。なのに日本史はあんなに詳しく扱われること。これがわからなかった。ローマとかギリシャは紀元前後からやたら細かく戦争とか残されてるのに、なんでアジアとかアフリカとかは1ページで何百年も超えていくんだろう。
なんのもまあ平等じゃないよな。日本だって、弥生時代とかですっ飛ばされるけど、そこにも歴史はあったはずだろうに。
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自分がこれが好きだという理由。いまでもわからない。
高校生の時にとにかく好きになったゲーム。僕は今後の人生でこのゲームのこと毎日少しずつでも考えて生きてしまうのだろうと思うと、一種呪われたような気分になった。好きなはずなのに。なにかに縛られるような気分だ。
そして、そのゲームがなんで好きになったのかはわからない。キャラクター?世界観?ゲームシステム?それとも友達が勧めてきたから?
ゲームならまだ理解できるかも。それなら、色はどうだ。僕は緑が好きだった。それがいつ頃からだろう、青が好きになった。そこに理由はない。後付けの無理やりなものは用意できるけど、それはそんなに大事じゃない気がする。
でも、なにか理由はあるような気がする。生きることの理由を問い詰めるみたいに。究極的にはないかもしれないけど、どこか自分が納得するところはあるんじゃないかと。
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理解できない不安だったこともある。
最近は一人で過ごす時間が増えたことで、自分自身を考える時間をたくさん取れた。これはかなりありがたい。その代わり、人間関係の時間が大いに減った。減りすぎて、コミュニケーションを正しく取れるのか不安なくらいに。そもそも正しいとかないんだろうけども。コミュニケーションは不安ですね。正解がないし、どの言葉を使っても等しく未来が待っているんだもの。どの言葉を選択するべきか。よく迷います。
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長く理解できずに感覚的に不安だったこと。
昔書いたような気がするけど、ずっと小さい頃から、生きているのは綱渡りのような感覚があった。ちょっとした間違いで見えない闇に落ちてしまうような。そしてそうしないで綱の上を歩いているのはまるで奇跡みたいだと。
その、闇に転げ落ちないのか不安だった。いまはもう不安じゃなくなったような気がする。闇に転げ落ちても、ちゃんと足場を確認して歩けるような気がする。もとの綱の上には戻れないかもしれないけど、どっこい生きてる。そうなれるんじゃないかな。
ネガティブ過ぎてねこうなったよ。
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謎を謎だと認識して、多く抱えることができるようになったのは、一人で自分を見つめる時間をたくさん取った結果だろう。
そして、今後はそれをどこか別に向けるべきだと感覚として思う。自省しすぎたら死んじゃうらしいからね。
つまり、大切な人に向けていくべきだと思ったのです。それがいまできる最善の生きる理由じゃろうて。
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戦闘力175日目
1200(+12)
勉強+5
その他+7
なんだか今日はいい日だった。シチューも美味しくできた。勉強も進んだ。やることやった。
誰かの役に立ちたいと思うようになった。自分のためにじゃなくてね。自分が優しくしたいから優しくするんじゃなくて。難しい。