〈741.創造主になろう!〉
10月8日。
一つ面白い話を聞いた。
消費に飽きてきている我々は、生み出す側にまわりたいんじゃないか。
そういう話。大量消費社会とそれを支えたフォーディズム、マクドナルド化の次の場面として、我々自身が作り手にまわることなんじゃないか。ということらしいです。
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このきっかけは、どうぶつの森のDIYでして、 DIYが現実でも頻繁に見るようになったり、TwitterとかそういうSNSで発信するようになったのも、個別性・特殊性・多様性が大事にされるようになってきたことからも思うわけです。
もちろん、これは一種欲しい情報だけを集めているだけにも思うんだけど、自分で自分の物語をつくれるようになってきているのはディズニーリゾートでも見られるそうな。
「ディズニーランドの社会学」という2016年に初版が出された新井克弥さんの本を僕はえらく気に入ってまして。
もともとアメリカのディズニーを持ってきた日本のディズニーが、どんどんウォルトが描いていた理想から離れていって、現代社会に適応してきた結果、情報と情報の整合性はともかく、とにかく情報をあふれさせるようになっており、その情報をそれぞれのお客さんが組み合わせてそれぞれの楽しさを見出せるようになっている、というような考察だったと記憶しています。
これを一種、社会に対するまなざしのひとつとして大事にしているわけでして、その前提で社会を見始めるとそれに適した例が無限に出てきているような気がするのです。
そうしてその例の一つとして、箱庭ゲームと言われる、広いフィールドで自由にプレイヤーが遊べるようになっているものがひとつ人気になっているんじゃないかと考えるのです。
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あつもりなんかは、もともとのどうぶつの森シリーズでの個性を出せる環境に加えて、DIYっていう一種無限に見える自分だけの島づくりが可能になってるわけです。住民も当然、プレイヤーがある程度選ぶことができるわけで。
マインクラフトとかもそういうことだと思う。
ガチガチに固められた物語より、ある程度自分の選択が世界に影響があるような感覚がゲームだと必要なんじゃないかと思う。
デトロイトとかUndertaleなんかまさにその真骨頂よね。
物語の消費じゃなくて、物語の創出がいまの欲求なんじゃないかと、考えるのです。
根拠は薄い、ただの言説だけども。
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戦闘力181日目
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その他+3
とはいえ小説とか映画とかドラマとかは生き残り続けるのはまた別の欲があるんでしょうけども。わからないね。おもしろい。