10月17日。
多様性を認めようという動きがある。
LGBTの方への理解だったり、ジェンダー問題だったり、全ての仕事に対する敬意だったり、もちろん国籍や肌の色も。
これ自体、とても素晴らしいことだと思う。なんだけど、この前見たニュースの"コメンテーター"の方の意見がどうも引っかかっている。
「いまの多様性を認めようって社会の中で、反対の動きをするっていうのは本当に害ですよ」
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当然、強い言葉を使っていることが大衆報道の中ではどうなんだ、というのもある。それが問題の核じゃなくて、「多様性を認めることを押し付けている」という姿勢が問題なんだと思う。
すでにその意見が多様性を殺しているということだと思った。
どんな意見でもちゃんと理解されるべき。そしてお互いに敬意を払うべき。それが多様性を認める、という意味だろう。
それは害である、という発言には理解があるのかなんとも判断できないし、敬意はない。
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なんだけども、これってすごく難しくて。
どんな意見も敬意を持って受け入れる、となると、今の世の中は完全でない社会であるのでダークな意見も敬意を払わなくちゃいけない。
「人を殺すことは悪いことじゃないんです」
これに敬意を払うべきなのか。
仮にこれを敬意を払わなくて良いことだとしよう。その根拠は違法行為だから。
つまり、多様性の根拠は法律にあることになる。
もうわかると思うけど、同性の結婚がまだまだ認められてない世の中、つまり法的根拠が意見として同性婚を認めようという意見は敬意を払わなくて良いことになる。
それくらい、法的根拠を理由に多様性を問うことは、多様性を押しつぶすことになる。つまり別の根拠を元に多様性を語らなきゃならない。
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倫理観だろうか。しかしそんなもの100人いれば100人違ってくる。
ここまでの話、僕は同性婚を認めて良いと思っている前提でこの文章を書いているけど、その根拠は乏しい。
当人たちが結婚したいのならば、結婚すれば良いじゃないか、というのは一種の思考放棄になりかねないと思う。
本人がしたければしていい、というのは自由の尊重として間違いはないけれど、社会の運営の中では問題が生じる。
「人を殺したいから、人を殺した」なんていう非道なことを許しかねない。
長くなったけど、多様性を語るっていうのはとても難しくて、簡単に言えるもんじゃないと考えているのです。
「誰もが幸せな社会」と言うのは簡単だけど、幸せが千差万別なので衝突が起こる。
真理なんてものはないので、人間が不完全ながら考え続けて、修正され続けなければいけない。その末に「真理らしいもの」を見つけて訴えてることが必要なんだろう。
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戦闘力190日目
1280(+5)
勉強+2
その他+3
「真理らしいもの」が「多様性を認める」ということなんだと思う。
この真理を提案する時、すでに矛盾がある。「多様性を認める」という意見を絶対的なものだとしている、他の意見を排除しているから。
でも、そうやって提案する行動がないと、それを超える「超真理らしいもの」は見つからない。
自己矛盾を抱きながらでも、訴えなければならないのが多様性なんだと思ったわけです。
結局ケースバイケースなんだろうな。