ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈766.疲労と適応〉

11月2日。

 

最近柔軟をはじめた。風呂上がりに30分くらい、動画見ながらダラダラと足を伸ばしたり、肩を伸ばしたりしている。

というのも、時々肩が異常に痛くなることがあるからだ。おそらく、四十肩とか言われるのはこれが悪化したらなるだろうと思われる。ある特定の位置になると肩が痛すぎて動かせなくなる。

それを恐れて今のうちに柔らかくしておけば抵抗できるだろうと思いはじめたのだ。一種のアンチエイジング的な。

 

 

しかしまぁ、柔軟は直接的に成果がすぐに現れるので気持ちがいいもんだ。

思えば中学生ぐらいの時にも同じ理由でハマったことがあった。1日2日痛い思いをするとその分返ってくる。

成長感がすぐに得られるのはいいことだ。

そのおかげなのかはわからないが、大きな怪我に見舞われることもなくハードな部活生活を乗り切ることができた。

 

それと、日常的な習慣づけることも気持ちがいいもんだぞ。

一応毎日書いているこれも2年が過ぎ、最近は文章を書くこともまったく苦痛がなくなった。うまいか下手かは全く関係ないけども、一種継続することによって、脳みそがそれ用に変わりつつあるのかもしれないな。

 

 

かつて読んでいたテニス漫画に描かれていた。

ハードな運動をし始めるときは、体が異常を察して抵抗する。それがとんでもなくしんどい。

だが、それを乗り越えて体がその異常さに適応し始めると、それまでの苦痛がまったくそうでなくなってくる。

苦痛への適応だ。

人間の体も精神も、適応でできている。

 

生物学で習ったホメオスタシスっていうんだって?恒常性機能だったかな。あれはこういう話ではなかった気がするけど、似たような話だったような気がしなくもない。

 

適応力の高さが人間力の高さの一つの指標にもなるだろうな。

 

 

とはいえ、適応力が高すぎるとどうなるか。

自分が消失してしまうんだよ。環境に合わせて体を作り替えられるのは最強の生き抜き方だとは思う一方、環境を変える力は有していない。

つまり、そこに起こる摩擦を減らしていくのが適応力だと言い換えられると思うけど、摩擦がなくなるということは同化するってことだ。

 

心的疲労は、この摩擦で生じているんだと思う。

この摩擦があるうちは生きていけると思う、一方で適度に休みを入れなきゃいけない。摩擦は痛くて仕方ないもの。

摩擦を感じなくなってしまって、そしてそのことに気づいたとき、生きる力がまったくなくなってしまうのが心というものだと思う。自我の消失。

 

つまり、痛いことはいいことです。

自分がそこにいることの証明なんだから。

痛みがあるうちに、痛みを感じ続けられるように休みを入れなさいよ!

 

 

戦闘力206日目

1383(+7)

勉強+1

運動+1

その他+5

 

まぁ、同化して問題ない痛みであればなくなった方がいいけどね。

軟体運動とかは、痛みがなくなれば怪我もしなくなるだろうし。

ランニングで肺に負担かかったときも、それを超えたときにもっと走れるようになるわけだし。

 

なにごとも無理は禁物ですが。