ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈779.時間の境界〉

11月15日。

 

場所によってスイッチが切り替わるのは大いにあることを在宅期間に思い知った。

家は仕事やら勉強する場所には、僕にとっては適してなかった。無理矢理にでも研究室やカフェに行かないと何にも進まない。

もちろん、家でも無理矢理家らしからぬ環境にすることで乗り越えようと努力はしたけども。コロナ第3波を迎えている現在はもう一度これを考え直さなきゃいけないかもしれない。

 

 

ただ、家とかカフェとかそういうピンポイントな場所に限らずスイッチングがされると思う。地元とか大学で過ごした場所とか。

いわゆる「場所の記憶」が強固に現在の私たちの行動を決めていると思う。

僕は群馬にいるとなんにもやる気出ない。リラックスして過ごすべき場所だと認識している。おそらく大学時代の4年間でそういう認識に変更された。受験から解き放たれたとき、実家で勉強する理由がなかったことからそう強く認識されたのだろうさ。

 

逆に京都大阪にいるときは、なにかしら作業をしなくちゃいけないと認識するようになっている。研究しかり、授業しかり、試験しかり。関西は僕にとって成長の場であり、常に何かしらすべき場所だと考えている。とはいえ休憩するけども、それは作業ありきの休憩だ。群馬の時みたいな無限のグダリはない。

 

そして東京は就活の場であったり、未来を見据える環境だと認識している。いまも時々東京に行くときは、就活だったり、数年後の生活を思い描くために時間をたくさん使っている。高校の友達と会うのも決まって東京になりつつある。そういうときは大抵昔話をして、そこから未来の話になる。つまり未来が必ず背景にある上で現在を過ごしている。

 

 

群馬は過去であり、関西は現在、東京は未来の場所。

そういうもっと広い意味で、場所というのは意味をそれぞれに見出していると思う。

そしてその間の夜行バスや新幹線というのは、境界である。過去から未来、現在から過去。そういう時と時をつなぎ合わせる存在が、長距離移動の機械には意味がある。

だから不思議な高揚感を感じたり、凄まじい自省が行われる。自分を問い直す場として境界がある。

 

場所の記憶、というのを認識してみると日常の行動を無意識下に操作できるのかもしれない。

 

 

戦闘力219日目

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昨日は酔っていたのでなにを書いたかよく覚えていない。

そういうこともあるのよね。