12月2日。
最近の感覚を言語化しておきたい。
小学生から高校生、いや大学3年生くらいまでそうだったかもしれない。答えは必ずどこかにあると思っていた。つまり自分の中ではなく外にあって、それをどうにかして見つけ出すことが人生だと思っていた。
転機は大学3年生の不条理なできごとかもしれない。信じていた正解も決して正解などではなく、ただの事象にすぎない。
むしろ、そうなることはもう「わかっていた」ような気がする。ただ言葉が与えられてないだけで。
自然の摂理に従って冷静に、といっても本当に冷静に座禅でも組んでる時みたいに、考えれば全て答えらしきものは自分の中にあると思うようになっている。
正しいかはわからない。
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なんとも説明できない事柄でまさにこういうことなんだけども、名前が与えられてないだけでそれはすべてわかっているみたいな。
そうなる運命だろうみたいな。事故にあって亡くなるとかそういうのは予測できないけど、大抵なことはそうだろうと思えてくる。
「正しさの感覚」とでも言っておこうか、そういうのはわかってきた気がする。しかし、そこには冷静な思考が必要なんだけども。
例えば簡単な話、成績を出したいならそれ相応の時間をかけなくちゃならんということ。もちろん、天才が現れて優勝を持っていく可能性がないわけではないけどそれにもその人の無意識下での、万人が努力と考える行為をしていたわけでして。
そういう法則があるような気がしてくる。
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毎日書いているこれも、正解ではないもののたくさんある正解のうちに遠回りではあるけども入っているような感覚がある。
それと同時に、もっとレベルの高い文章でなければ意味のないという「正解の感覚」もある。
なんでそれをしないのか。熱量が足りてないんだと思う。時間は作り出せるし、戦略も作ろうとすればできないこともない。
実際に行動に移す必要性を現状感じていないから。
そう。すべてのことがこれで説明できる気がする。「熱量が足りないから」。正解はなんとなくわかる。研究のことも、就活のことも。
なのになんでしないのか。かっこ良くいえば「機が熟してない」カッコ悪くいえば「やる気が出ない」。
やる気なんて出そうと思って出るもんじゃない。勝手に出るもんだ。
努力しなくていいって話ではなく、単純に努力していることには意味はないということだ。
感覚に沿って、やるべきことをやった末にあるのが未来だと思う。そしてそれに間違いがないのは感覚である。
結局そこは動物的な感覚なんじゃなかろうか。バガボンドを読むとより一層そう思えてくるのです。続きが読みたいぞ。
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戦闘力236日目
1528(+6)
勉強+3
その他+3
やるべきことはわかってるけどやらない、明日の俺がやってくれる、そういうことではあるけどもそういうわけでもない。微妙なニュアンスなのです。
やってねえなあってことは、生きていて辛くなってくるもの。勝手にやってしまうのよ。それができなくなったら死ぬか檻の中でしょうな。