3月3日。
研究室の整理をした。そこそこの量の研究書と論文は一気に持ち帰れないので何回か戻ってくるであろう時に回収することにした。いろんな方面を読んでヒントを求めたけどもなにか意味はあったのだろうか。
隣の研究室の同期にあいさつした。どうせ今月末にまた京都に戻ってくるからそれほど寂しくはない。飯に行く回数はもう片手で収まるだろうな。
先輩にラーメン屋に連れて行ってもらった。何度か連れて行ってもらってたけど多分これで最後だ。
前に住んでいたところの近くの川沿いを歩いた。夜になるとそこで素振りをしてたもんだ。関西の拠点がない今、わざわざ夜に素振りすることもないだろう。
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別れの寂しさは殻を破るつらさだ。
だいちは常に厳しい環境に身を置くようにという主旨の言葉を大学の先生にもらっていたと思う。
それに等しい。ようやく慣れて、居場所ができたらそこから離れるタイミングも必要なんだろう。長年続ける継続力も必要ではあるけども、それはかなり特殊なことだと思う。環境を変えないことは、安定をもたらすけども怠惰ももたらしかねない。怠惰であることはダメなことではないと思うよ。僕はそれは嫌だなと思うけども。
だからこそ、悲しさとか寂しさとかと同時にわくわくしているんだろう。未知への恐怖と同時に未知への期待があるからわざわざ安定を捨てるのだ。
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じゃあ、社会人になったらどうなるんだろう。未知なことはやってくるんだろうか。
それが物理的な環境じゃなくて精神的な環境なのかもしれないなぁ。子供ができて、孫ができて、親族が先立っていく。そうやってそれまでの生活が少しずつ、ダイナミックに変わっていくのが社会人にとっての未知なんだろう。
もちろん、昇進とかによる環境の変化があるんだろうけどね。
これまでの生活では物理的な旅が必要だったけど、これからの生活では精神的な旅が待っているんだろう。そうやって大人になっていくのかな。
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殻を破るためには今の僕は社会に出る必要がある。だから6年間お世話になった関西からは離れる。
もちろん、就職でまた京都大阪に戻ってくる可能性がないわけではないだろうけど。それでもその時には今とは違う視点から街を眺めているんだろう。
なに言ってんだろうな。もっとストレートに言えばいいのに。
さみしいです。離れたくないです。
でも未来が楽しみなんです。だから離れます。
ありがとう。立派になって戻ってきます。
さよならは言います。これまでの自分との訣別のためにも、もっと立派な人になるためにも。