ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈900.死ぬとか生きるとか〉

3月16日。

 

自分の感覚の麻痺を感じたので残しておく。僕はこれまでに何度か書いてきたが、同い年の親友を失っている。幼稚園に入る前に祖父を亡くし、小学生になるくらいに祖母を亡くした。親戚の親しくしてくれたおじさんやおばさんを高校生の頃に亡くした。

親しくしてくれた人を歳のわりに結構亡くしているせいか、死ぬことは怖いことではないと思うようになっている。しかし肯定するわけではない。怖くはないだけで悲しいことだ。とても悲しい。しかし同時に仕方ない。諦観だろう。

この感覚は仕方がないように思えるけど、同時にあまりよくないことのように思えるので考える。

 

 

なんでこう思ったのかというと、ニュースで誰かが亡くなった話を聞いてなんの感情も生まれないことを違和感に感じたからである。

事故に巻き込まれた、事件で亡くなった、有名人が天命を全うしたなどなど。命に関わる情報を、高校大学くらいまではイチイチ面くらって心を痛めていたけども、最近は情報として流してしまっているのではないかと思う。

よくない。命があればその周りに関係者が間違いなくいて、命がなくなればその周りが悲しむ。それを僕自身が経験していたはず。知っているはず。同情できない/されたくないくらいの悲しみがあるのを知っているのに、ただの情報にしてしまっているような気がする。

 

 

もちろん、精神衛生上すべての死について考えていたら身がもたないとは思う。しかしあまりに無感動なのは世間との感覚のズレがあると思う。

世間と感覚がズレるとなにがよくないのか。人が何に感動して、なにに勇気をもらうのかわからなくなってくる。それを届ける仕事に就こうとしているのに、その感覚を失うことはよくない。

 

そしてもうひとつ。なにが怖いかというと、もう一つとんでもない悲しみを負うことになったとき、完全に世間と違う価値観の中で生きることになるような気がしてしまう。

端的言えば、いま家族であったり親友であったり、そういう身近な人間が事故に遭ってしまったら、自分の命の重要性を見失うどころか人間一つ一つの命をきちんと見つめられるのかわからない。いまはまだ大丈夫だと思う。そうなったら人間終わりだとわかっているから。

そのネジが外れてしまったらおわりだ。

 

 

寿命がきて亡くなれるのはとても幸福なことだと思う。それ以外の要因で死が訪れる可能性は十分あり得るもの。

だからこそ、死への恐怖の感覚に囚われていたら生きることが楽しめないっていうのは当然の話。しかし、同時に死をきちんと見つめる時間も必要だろう。

先日、バビルサという長いツノを持つイノシシのような生き物の彫物を見た。ツノのように伸びる牙が最期に頭に刺さるという言い伝えがあるそうな。そこから自分の死を見つめる動物とか言われたりする。

 

死ぬために生きる、というと言い過ぎになるけども。生きることも、死ぬことも、当たり前だと思ったらダメ。針の上にあるようなバランスを喜ぶことが大事なんだと思った。