〈902.責任とコミュニケーション〉
3月18日。
Facebookにいいね以外に表情がつけられるようになったのは2015年のことらしいです。
最初はいいねしかなかったのが、超いいねとか悲しいねとか、ひどいねという怒り顔もできるようになった。ザッカーバーグはそれについて、共感を示すためにはいいねじゃないこともあるということらしい。そりゃそうだ。大切な人が亡くなって悲しいという話に親指立てるばかちんはいない。同情してますよという意味で悲しいねっていうやつを送ればいい。
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わかるけどさ、本当に心底同情してたら電話するからね。電話しなくても個人のライン送ったり、メッセンジャー送るからね。試しに考えてみてくれよ、もし友人のパートナーが事故に遭って亡くなったという話を聞いたら。
呑気に悲しいねなんてやってる暇はない。心配なんだからとりあえずその友人に会ってお茶にでも行こうと、あるいは家に行っていいかと。
そこまでの心理的距離がない場合なら悲しいねとか言ってられるけど、やっぱその表情機能を使っていられるくらいに他人事だと感じる。ほんとの気持ちは表情だけだと伝わらないから言葉を使うわけだし、言葉だけだと伝わらないから動作を使うわけだし。それでも足りないから全てを総動員できる「会う」っていう行動が出てくるわけだ。
そっとしておいてほしい場面ならSNSにはあげないもの。SNSにあげるってことは、共感されたいってことだもの。その程度の情報だってことだ。
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SNSで悲しいね、ひどいね、って言えるのは他人事であって、ホントに悲しいこと、ひどいことは現実で対処をするわけです。
この話の元はといいますと、「プロスポーツ選手が誰々に負けましたっていうニュースにひどいねを送るのはなんなんだ」ということでした。わかるよ、応援すればするほど負けた時悲しいもん。でも、悲しいであってひどいねってなんや。
結局他人事のニュースだからそんな表情できるんだろう?ホントのファンはもう他人事じゃなくて身近になっちゃってるからホントに悲しいんだぜ。なにをそんな一丁前にひどいねなんて言ってんだ。
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もちろん、ホントのファンってなんなんやねんということにはなるけど、息子娘で考えればよろしかろう。息子娘が試合に負けて怒る親は考えなしだと思う。負けた事実じゃなくて他の原因に対して怒るならわかる。負けた事実に怒るなら親失格である。
試合に負けたのは自分じゃない。責任は本人にある。親である私/あなたができることといえば見守ることである。コーチであれば一緒に反省することになる。
それを怒るっていうのは、大衆居酒屋で甲子園に罵詈雑言を吐く「フィクションの」クソ親父だけで十分だ。結局自分に責任はないことをいいことにバカにしているようなもんだ。
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まわりくどいけど、つまりはファンなら見守ろうやということです。
そしてSNSの他人の投稿に感情的になることほどアホらしく見えるものはないぜ。SNSなんて責任のないアホらしい発言をする場所なんだからさ。パンケーキ食べてうまかった!これにいいね!でいいじゃん。SNSなんて平和な世界でええやんけ。
感情的になってかっこうがつくのは自分に責任があるときくらいだからね。