3月26日。
テニスバカとバカテニスは違う。
テニスバカは、どんなことでもテニスに関するように解釈するような、テニスのことしか考えないようなやつのことだ。一種の愛のある呼び方だろう。
しかしバカテニスに愛はない。作戦もないようなテニスプレーのことでありそんな愚かなことをする奴のことだ。
文字は同じだけど並びが違うだけで愛があったりなかったりするし、良い意味にも悪い意味にもなる。
こういう言葉の解釈って人によって違ってくるから、意味してるところを伝えるように気をつけたいところだ。
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この910回のうちに何度か話しているけれど、特に形容詞に気をつけたい。
かっこいいと言っても、かっこよさは人によって違うので。
「あのかっこいい車だよ!」といってもポルシェをイメージする人もいれば、ダンプカーをイメージする人もいる。言葉は不完全だからこそいかにも人間らしい営みだと思う。だから好きなのだ。
そして当然「人間らしい」とはなんなのか、という話になる。
"僕が意味する"人間らしいとは、完全一致のような完璧さはないが、人と人の間でなんとなくで成立する様子だと思う。かっこいい車の例のように、かっこいいは人によって違うけど、車という四輪の鉄の塊であることは大抵一致する。
それを会話を通してじりじりと一つのモノに近づいていく。これが人間らしさだと思う。
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しかし、どちらか一方が一致に向かうことを放棄したらすべてがおわりになる。会話はおわるし、放棄するという選択をすることで信頼関係もおわる。
それが権利闘争になれば戦争になり、個人間であれば絶交ということだ。この不完全で不安定な社会性も人間らしい。
つまり、雲のような不定形で流れてしまうようなものが人間らしさなのかもしれない。それをじりじりと特性を変化させれば水という液体でさっきより形を得るし、肩を組めるようになれば氷のように完全な安定感を得るものになる。
しかし、それもまた安定感はないんだけども。
それでも根拠がなかったとしても信頼するべき時もあるだろう。
そういう間のふわふわの特性は言葉という形を得ることで変化できる。
つまり、人間関係をふわふわしたものからギュッとつなげるためにも言葉は必要なんだと思うんだ。それが面白くも難しくて嬉しくなったり悲しくなったりするもとなわけだ。