4月18日。
地元に帰ると考えさせられる話がある。
子育てだ。
あまり確かなことではないけど良い奴の親も良い人であることが多い。あんまいい奴じゃない親もあんまいい人じゃない。
しかし、これは僕にとっていい人かどうかなので絶対評価ではない。そういう前提での話。
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例えばあなたが子育てを始めたとしよう。小学生3年生になってまわりも大きくなってきて習い事を始めるようになったとしよう。
そしたら最近流行りのダンス教室に子供が通いたいと言ったとしよう。これをどうするか。
僕の常識でいうと何も言わずに通わせるし、せっかくならということで週末とかにプロのダンスコンサートとか一緒に行くだろう。なぜなら僕がそうやって育ててもらったからだ。
だが、これはかなりありがたいことだったのだろう。地元の友人でもテニスが好きでも大会の観戦に行くという発想は誰も持っていなかった。選択肢としてないのだ。
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ここで考えるべきなのが、子の可能性を広げることの有無である。
仮にダンス教室に通ったとするとお金がかかる。休日の送り迎えもするし、大会となれば遠出しなくちゃいけないかもしれない。仕事終わりのヘトヘトの状態で週に何度も送り迎えをするのはとても大変だ。だったら親よりもまず一人の人間としての豊かさを求めるという選択肢をとれば、ダンス教室ではなく一緒にビデオを見たりしてがんばろうということになる。
もちろん子供に力はない。最悪喧嘩して終わりである。最悪のシナリオを描けば、そりゃあ苦労してでもダンス教室に通わせようとなるけども、仮に通わせた時の最悪のシナリオと比較しなくちゃいけない。
20時に仕事を終えてそこから家から反対方向のダンス教室に通い、若干アメリカナイズされたノリのきつい先生と話をしなくちゃいけないかもしれない。そうしてようやくやってきた日曜日の休日も朝7時に起きて車に乗り込み、2時間運転した先の体育館で発表会。
きついぜ。親としての自分によって、一個人としての自分の欲はかき消さなけりゃならない。
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表面的な答えとしては、親なんだから子供の可能性は最大限まで広げるべきだと考えてなんでもさせてやることだ。
しかしながら、親としての仮面を被り続けるのに疲れてはいけない。仮面と一体化して吸収するのかされるのか、常に親であるということだ。
子供ながら、この親は親じゃないなと思う人は多くいた。しかしそれを否定はできないし、するべきじゃない。人間なんだからそれはそういう生き方があるということだ。
今の社会で子育てをすることほど難しいことはない。あちらを立てればこちらが立たないことが多すぎる。結局自分が何を大事にするか、それが1番大事ということか。
となると、僕はまだ親にはなれない。自分自身のやりたいことが多すぎる。ちゃんと子供には子供がやりたいことをやらせたいもの、自分を後回しにできるタイミングまでまだ責任ある親にはなれん。