〈978.大人〉
6月1日。
ふとどういう態度を取るべきが考える時がある。初対面の人とか年上の人とか。そういう時、無意識にあの人だったらどういう表情でどういう対応するかなと想像してそれに沿って現実の行動を決めたりする。
そういう人は何人かいて、共通しているのは笑顔で口数が少ないという点である。理想の大人像がそれなのかもしれない。
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理想の大人について前々から何度か考えていたりするけど、同級生が25歳に既になっており自分も20代も半ばになっていることを自覚させられる。いつまでも大人とはなにかを言っている場合ではない。
当然のことながら、まわりからみたら十分に大人である。
成人式で大人だったかと言われればそうではないだろう。自分は特に学生だったし、収入もない。同級生に会えば昔のまんまである。大人であるならもっと大人びていても良いだろう。
大人びるを辞書で調べても「大人らしくなる、成長する」みたいなことしか書かれない。
Wikipediaなら「考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること」だそうな。
成熟、思慮分別。これはなにか指標がないのかしら。
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例えば街頭アンケートで突然あなたにマイクを向けられたとしよう。
「あなたは大人ですか」
サラリーマン・ウーマンならばたぶん多くはイエスと答えるだろう。子供がいたらそうだろうし、お給金で生活基盤があるというのもそれかもしれない。成人式を終えていたらそう言うかもしれない。
「あなたは考え方や態度が十分に成熟しており、思慮分別がありますか。」
こうなるとイエスとは言い難いかもしれない。というのも考える時に比較対象を人は設けると思うけど、上司や職場の人たちになる。となると、自分のイラっといたエピソードであったり判断ミスがあったことを想像するとなかなか渋くなるだろう。
大人とはお給料とか世間的にどうというのものではなく、思考力にあるというのが肝だろう。
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この思考力はWikipediaの定義からしたら2つあるだろう。論理的思考力と思いやりである。おもいやりを社会的思考力と言い換えておこう。
つまり、第三者にも理解できるような言動ができることと、社会的な良し悪しの判断ができることだろう。
考え方・態度の成熟と思慮分別は、結局人としてどうあるべきなのかを理解し行動できることだと解釈した。
つまり人は結局社会的に生かされている動物だと認識できることじゃないかということです。なんか西洋の社会学に引っ張られすぎている気がする。
でも街中で見かける大人っぽくない大人は自己中という共通点があると思うとあながち間違いではないかもしれない。
まあ、人によって定義は違うということが唯一の正解だとも思えてくるが。