6月11日。
壁打ちをした。ひたすらに壁に向かって打ち続ける。これまでは特に何も考えず、気持ちよく打てたら良くてそうでなけりゃやり直し程度だった。
それじゃあ楽しい壁打ちにはならない。ということで100回打ち続けるまで休みを入れないというハードワークにしてみた。経験者ならわかるけど、壁打ち100回はそれほどハードではない。なので8割程度のハードヒットでできるかどうかをやってみた。結果的にできたが、終わる頃には座りたいけど座ったら逆にしんどくなるくらいヘトヘトになった。
いい練習ができた。
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しかし、この練習は自分次第である。
8割程度と簡単にいうけども、力加減を具体的に8割というのはわからない。自分が納得するかどうかである。
つまり、こういう話だと思う。一人の僕は真面目に納得できるハードヒットを打つ。もう一人の俺はしんどいので8割ということで実際は6割5割で打つこともできる。
よくある話、自分とどう向き合うかという練習である。テニスの真骨頂の練習だとおもった。
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おそらく、人間は取るべき行動が何かは常にわかっている動物だと思っている。ある意味性善説だ。
しかしその判断を誤らせるのが正当化という悪人である。欲に沿った行動を正当化することで本当にすべきことではないことを選ぶ。
テニスは、その正当化をはじめるとすぐに負けるスポーツだ。相手が敵ではなく、自分自身も敵ではない。結局のところ、「自分と仲良くできるかどうか」これを問われるスポーツだと行き着いた。
打つべきショットはわかっているけど、ハードになればなるほど楽したくなる。それで楽なボールを打ったら当然相手に刺される。テニスがメンタルのスポーツだと言われるのはそういうことだと理解した。
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僕がデブの理由はそこである。甘いモノを食べることを正当化し、肉しか食べないことを正当化し続けた結果である。
テニスは最も苦手なスポーツだといえよう。しかし、なぜ高校の時は勝てたのだろうか。もう一人のテニス用の人格を用意したからである。それでいまでも時々この人格が表に出たがる。それを奥にしまい込むことを正当化することで日常は逃避に逃避を重ねることになり見事な体型になった。
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ただの趣味の壁打ちで自分自身の選択の仕方を思い知った。ここのところ痛風疑惑があることでそういう思考回路になった。
昨日の話の続きになるが、努力の末に結果が出なかったとしても、努力の成果を発揮できるか不安な時も、やるべきことは自分の中ではわかっている。でもそれがわからないふりをしているというのが正解だと思う。わかってしまうとそれで自分を傷つけることになるから。
敵は相手ではなく自分自身、という言葉。わかるけどなんとなく納得できなかった。だって自分が敵ってツライじゃない。
僕は壁打ちの末に、「いかに自分自身と仲良く会議ができるか」この結論に行きつきました。