ホウチガブログ

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〈993.できるということ〉

6月16日。

 

学びというのはなかなか難しい。頭でわかっているけども実際にはできないことがたくさんある。「知っている」と「できる」は違うことだというのはそういうことだ。

そういう意味で、僕は「できる」ようになりたい。

 

 

とはいえ、「できる」ためには「知っている」という状況が必要であると思う。なにがどうなった時に「できる」のかは頭で理解できることで再現性が得られる。
例を考えよう。陶器を作るとする。ろくろを回して形を作る。これを師匠から見よう見まねで作る。この時には、師匠の技を自分の中に一度取り込んで、それを咀嚼して自分の技にするんだと思う。


この「取り込み、咀嚼する」ことが「知っている」という状況で、「自分の技」として発揮できるのが「できる」ことだと思う。

 

 

しかし、世の中にはそういう類ではない人もいる。講義できないタイプである。天才ということかもしれない。人の素晴らしい技を模倣することから始めるだろうが、そこから我流に跳んでしまう。つまり、「知っている」という状況を経ることなく、いきなり「できる」状況になることだ。

 

手前みそになるが、僕のテニスは「できる」状況にはやくたどり着いた。人に教えることができないタイプである。なぜかというと、物まねは大得意だったので、頭では考えずそのまんま模倣することで良いプレーができるということだ。
その結果どうなるか。自分でどうしたらいいのかはわからず、練習したことをそのまま受け売りでやるだけだ。応用ができなくなってしまった。

 

 

つまり「知っている」という状況を経ずに「できる」タイプには、「人からの技をパクる」タイプと「自分で考えて我流を編み出す」タイプの二つがあるように思える。前者は、人のレベルにはすぐに達することができる器用貧乏であり、後者は本物の天才になるタイプである。
どちらもある程度のレベルまでは「天才」として扱われるかもしれないけど、自分の頭で考えないうちには「本物」にはなりえない。
プロスポーツ選手の多くは後者だろう。勝手に自分で考える癖が小さい頃から身についている。全国大会に出れてもプロにはなれないタイプは多分、自分で考えることを放棄するタイプだろう。

 

 

つまり、一般的に「できる」ためには「知っている」という状況を経たほうが後々大きくなるだろう。大器晩成というやつだ。それを最初からできるのは「パクり」か「本物の天才」である。
「パクリ」が本物になるためには、パクりながらも同時に考える努力することだ。パクるだけである程度の結果をえられるから、これが難しいんだけども。

 

とにかく「本物」になるためには経過はどうであれ、吸収して咀嚼して、我流を作ることである。考えることだ。かつての少年ができなかったことを青年になってやることだぞ。壮年になっても考え続けることだぞ。
その先に本物の「できる」があるんだからな。