ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈996.残すこと〉

6月19日。

 

最近確かに感じる自分の中での変化がある。
仮に明日死ぬことになったら、なにかしら残したいと強く思うようになった。明日といわず、今日この帰り道に事故に遭うかもしれない。それならこと切れる前に髪の毛でもいい、何かを残したいと思ってしまっている。
僕が生きたという証がほしいと思ってしまっている。死ぬのが怖い。

 

 

別に死ぬのが怖くなかったわけではない。昔からビビりだし、擦り傷ができるだけでべそをかいた。しかし親友が死んで、こんなにあっさり死ぬのであれば自分が生きることもまぐれみたいなところがあるように思えた。
生きることは死ぬためだという言葉を聞いた時には安心したものだ。
1年前であれば同じ質問をされても、死ぬことを受け入れて諦めるという回答をしただろう。
でも今は抵抗したいと思うようになった。死にたくないし、死にきれずに怨霊になると思う。
なんでだろう。生きて何かを残したいと思っている。だからこそ僕が考えていることを文字にして形にしようとしているのかもしれない。

先日みた映画の影響もあるだろう。

 

 

親を殺された少年は、生きることが自分の戦いだと言っていた。自分が生きることが、親が生きていたことの証であると。
それを見た戦士はある考えに至る。一つ一つの命は意味もないし、長い旅路を経てもなにも得られないかもしれない。でもその経過で間違いなく伝わることがあり、一つ一つの意味は薄くなるかもしれないけど間違いなく積み重なっていくと。

 


うすっぺらい言葉でいえばバタフライエフェクトといえるかもしれない。アメリカ西海岸の蝶の羽ばたきが太平洋を経てインド洋を経て大西洋では大きな波を起こすことになっているのかもしれない。
か細い糸が紡がれて大きな物語になる。

そう思うと、いまの僕が仮に死んだらなんにも残せないという確かな感覚がある。だからこそ今死ぬわけにはいかない。死ぬことは怖い。

 

今有名な人であっても100年後にはだれも覚えていないだろう。芥川賞作家であったり、総理大臣であれば教科書に残ったり一部ファンが伝えているかもしれない。
でも何億の人の名前も顔も残らない。でも何億のやってきたことが100年後の世界を作り続けることになる。

研究なんて特にそうだった。セネガルのゴレ島の研究者なんてほんとに数えるだけだ。でもその1年2年かけて書いた論文が今の僕に続いたし、いるのかはわからないけど、僕の論文が数十年後の青年の研究の助けになるかもしれない。顔もわからない、時代も違う、人種も違う人が同じテーマに向かって走っている。バトンを渡している。

いつのまにかバトンを受け取ってしまって、いつのまにか渡してしまっている。

 

 

大きい話になってしまった。

単純に死ぬのが怖いと思うようになっただけかもしれないけども。そういうことを学んだ2-3年ですね。