ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈998.「天才」と対価〉

6月21日。

 

毎日にメリハリがなくて困っている。修士論文を書いている時期からずっとそうだったけど、決められたタスクもなければ締め切りも(ほぼ)ない。それはつまり、なにをしようとも結果という結果もないし、褒められたり罵られたりということがない。プラスもなければマイナスもない毎日である。
無色の毎日を過ごすこともできる。のっそり起きて、適当に飯食って、ゲームでもやって、寝ればいい。なんにも残らない日記に書くこともない日ができる。そういう日もあっていいだろう。心骨疲弊の末にはそういう日があったほうがいい。
とはいえ、そういう日が続きすぎると嫌になっちゃう。いかに自律して日々を送るのか。自分といかに仲良くできるのかという非常に難しい毎日になる。

 

 

自分と仲良くするというのは、理性と本能をうまいこと取り持つこととも言えるかもしれない。
さすがに20代もなかばになれば、すべきことは常に見えている。しかし、それを怠惰な本能が見えないようにうまいこと合理化しようとすることがある。つまり、その本能をうまいこと操って理性とも折り合いをつけてすることを選択することが自分と仲良くするということ。

仕事をしているときはそれではない別のべクトルが対立することになる。怠惰な本能と信頼関係を崩すまいとする理性である。今の関係が崩壊すると生物的な生ではなく、社会的な生が脅かされる。それを回避しようときちんと自律するようになる。

 

いずれにしてもうまいこと欲望を制しながら同時に小出しで解放しながら成立するのが今の社会での生活だろう。

 

 

しかしながら反対する人もいるだろう。仕事も本能的にしているというタイプである。社会奉仕的な仕事であれば、それが楽しくて仕方ないから毎日仕事をするような人。あるいは研究で見つけることが楽しくて仕方ないので理性と本能が一致しているような人。
時々見かけるレアなタイプの人。こういう人を僕は「天才」と呼ぶことにしている。研究室にはけっこういるタイプだし、ベンチャー系の知り合いが多かった学部時代にも見かけた。
僕は理性と本能がまったくもって別方向を向いているので、こういう「天才」の考え方がまったく理解できない。ちょっと会話するにしても「○○だから△△じゃん?」といわれても「そうはならんやろ」と思いつつ首を縦に振るしかなかった。

学部時代はどうやったらこういう「天才」になれるのかまじめに考えていたけど、考えるだけ無駄だと悟った今は別の攻略方法を探すことにした。

 

 

おそらくだが、こういう「天才」型は自分の「好き」をすることで対価を得られている人だと思う。
その対価はもしかすると「金」かもしれないし「愛」かもしれない。「承認欲求」というタイプかもしれない。
つまり、自分の「好き」というよりも何を「対価」として得たいかによるものだと思う。よく、自分の好きを突き詰めて考えてみろといわれるけども、それ以上に「自分がしたことの対価でほしいものはなにか」これを突き詰めて考えるほうが、生きていく上では大事な気がする。

 

ランプをこすったら大きな魔人が出てきた。

3つだけ願い事をかなえてくれるといったら何を願うか。
それこそ「対価」でほしいものじゃないだろうか。金がほしい人ならお給金をしっかりいただける会社の中から自分が好きそうな仕事を選べばいいし、友達がほしければ人間関係が良好な会社を探せば良いでしょう。「愛」というのであれば、おそらくそれは承認欲求に近しいものがあると思うので成果主義的な会社があっているかもしれない。
適当につらつらと書いただけだけど、「対価」から自分の未来を描いてみるのも悪くないだろう。

 

 

「対価」つまり「ほしいもの」は何か。わからない人は自分の欲望と夜中に対話することじゃないかしら。
僕は「安定」と「リスク」の両方がほしいです。帰る場所ありきで挑戦したい。そういう意味ではマニーと同時にフロンティアが仕事に求めることでしょう。
なんか就活っぽくてやだな。