〈1003.ゾンビと倫理〉
6月26日。
すごくどうでもいい空想の話。
よくあるゾンビ映画なんかだと噛みつかれるとその人もゾンビになるとか。
いまでこそ理解できるけど、細菌の感染っていうことになるのかな。ゾンビになる細菌っていうのもよくわかんないけど、「ラストオブアス」なんかだとキノコの繁殖とか寄生虫を参考にしたとか。
「マインクラフト」にもゾンビが出てきてプレイヤーや街の人を襲ってたりする。
その中に子供のゾンビがいる。映画だと、子供に対するグロテスクな表現は禁止されてるとかであんまり登場しないけど、マインクラフトくらい曖昧な人間表現であれば気にする必要もないだろう。
しかし、こどものゾンビというのはどういうんだろう。ゾンビとゾンビが交尾することで子供ゾンビは生まれるのか。それとも普通の子供もゾンビに襲われて後天的にゾンビになるのか。
菌類の増殖の仕方を考えると、後者の後天的ゾンビの可能性が高い。
その前提で考えよう。
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小学生の太郎くん。いつもどおり家畜の世話をしているとゾンビが現れて襲われてしまった。
しかしそこに猟銃を持った山田のおじさんがやってきた。
ここで太郎君を襲っているゾンビについて二つのパターンを考える。
襲っているのが大人のゾンビであれば山田のおじさんは遠慮なくぶっぱなすだろう。ここでは、単純に「力ないこどもVS力ある大人」の構図であるので、弱者に加勢するのは問題なく思える。
ではここで、太郎君を襲うゾンビが背丈がおなじくらいの子供ゾンビだとしよう。さて山田のおじさんはどうするだろう。
単純にゾンビであるかどうかを置いといて、暴力をふるう子供に制裁を加えて正しい道へ教え導くのが大人の心得であれば、そのこどもゾンビを山田のおじさんは押さえつけておとなしくさせるだろう。
さらにその子供ゾンビがさっきまでそこで一緒に遊んでいたおじさんの姪っ子だとするとどうなるだろう。
血のつながらない太郎君とゾンビになった姪っ子アキコ。山田のおじさんは「人間の種の保存」という動物的な目的に沿ってアキコを打ち抜いて太郎を助けるだろうか。仮に実の娘の明美ならどうか。
もはや人間という大きな尺度ではなく、自分との近さのほうが大事になってくるだろうし、むしろアキコや明美のゾンビとしての生き方を支えるために山田のおじさん自身が彼女たちの餌になることを選ぶかもしれない。
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ゾンビをどうとらえるのかというのは難しい。
「さっきまで人間だったもの」とするか「人間の延長」ととらえるかで大きく変わる。前者の「人間だったもの」ととらえるということは、ゾンビは人間ではないとしている。つまり、失われた能力によって、あるいは新しく得た能力が人間ではないということ。「同種族への攻撃性」「論理的思考能力」「言語能力」「見た目」これらがゾンビと人間とを隔てていることになる。
後者の「人間の延長」というのはそれほど大きな隔たりはないというふうにとらえて、これまで通りに扱うのかもしれない。
ゾンビというのを、一種の動物ととらえるか、特別な何かととらえるかというのは、動物(愛玩動物)について考える問題が助けになるかもしれない。
家畜動物は食用なので屠殺も仕方ないが、ペットは家族なので仮に殺されようもんなら恨まれて復讐されるかもしれない。
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おなじ種でも、その個体に求められている事柄でどうとでも認識される。ひどい言い方をすれば、生きている人間の都合のいいように解釈がされるということだ。
特に深く考えることもなく、村に現れたゾンビを剣でぼこぼこと殴りつけるけども、それは「人間ではない」という認識をしているからだろう。
しかし、目の前でゾンビに噛みつかれ、ゾンビにかわっていく様を見せつけられたならば剣はなかなか振り下ろせなくなる。それが子供であればなおさらだ。
仮にゾンビでも会話ができたらどうだろう。
けっこうゾンビというのは人間の倫理観とかを考える上では助けになる存在かもしれない。