ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1022.趣味とは〉

7月15日。

 

趣味について答えるタイミングがあった。
趣味は、本来の目的と手段が交錯してることだってだれかが言っていた。収集癖であれば、集めたうえで何かをするのが本来の目的なのに集めることが目的になってること。
この定義に当てはめて考える上では、この「本来の目的」っていうのがこれまた曖昧である。
特にスポーツでは。

 

 

例えばボクシングという競技を考えよう。
もともとは暴力である。それを代闘士という決闘を代理で行う人が現れたりして暴力が観戦の対象になった。
そんでもってルールが整備されて、足を使うのは別の競技になったり、時間が決められたりして、そうやってボクシングという競技ができた(と思います)。
このボクシングの元々の目的を暴力による支配・優越性に置くとするとボクシングというスポーツ全てが趣味になってしまう。
しかし、ボクシングというスポーツにおいて試合で勝つことを本来の目的として考えれば、それを強くなるために始めたランニングが楽しくなればランニングが趣味だし、試合に出ずにサンドバックをボスボスし続けることが楽しくなればそれが趣味だと言える。

つまり、その「本来の目的」をどこにおくのかはその人次第だし、いわゆる「常識的に言えば」というやつにゆだねるしかない。

 

 

例えば僕の趣味、テニスをどうするか。
テニスという競技はもともとラケットではなく手で石みたいなやつをぼこぼこを打ち合ってたことにルーツがあるとか聞いたことがある。
その時点でもはや本来の目的がない。気晴らしが本来の目的になる。となると、僕がいまテニスをやることも気晴らしなので本来の目的に沿ってるので趣味とは言えない。
テニスをプロがやる競技として勝つことを本来の目的にすると、当然試合に出れば勝ちたいのでそれもまた本来の目的に沿っている。
では、テニスの本来の目的を、大会に出て賞金を稼ぐこととする。これならば僕のテニスは趣味になる。
しかし、それがテニスというスポーツの本来の目的ではないだろう。

 

 

つまり、スポーツが趣味ですというのは本来の目的がどうとか置いといて、スポーツをしていること自体が趣味になるのだ。

生きる上での「気晴らし(=スポーツ)」は、生きることの本来の目的とはならない。手段の目的化が発生しているわけだ。
つまり、気を晴らすという生きるための手段だったものが、気を晴らすことが目的になっているということ。

じゃあスポーツ選手はどうなるの?
賞金を稼いでいるから趣味ではないってことか?生きる上での目的になっているということか?

 

なんだかよくわかんなくなってきた。
あとでまた考えることにする。次は、生きることは趣味になるのかを考えてみたい。そこがわかればなにか進展がある気がする。
生きるという目的を手段としてとらえるってなんだ。