ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1053.終戦の日〉

8月15日。

 

終戦の日である。
76年が経過した。

 

終戦の時に、今の僕と同じ24歳だった人は今年で100歳になる。
まだ若いころに価値観を急に180度変えさせられた方々である。今のコロナによる変化以上の変化だったんだろう。

 

1955年から20年間の高度経済成長で30代40代の働き盛り。今の日本に至る基盤を作った世代だろう。そして1969年48歳の時に月面着陸を見た。
1981年に定年退職をし、65歳くらいで日本はバブル経済を迎えた。
確かにそこを経験してきた世代の方々からしたら、今の日本は元気がないかもしれないし、いまの24歳はなんともまあ勝手気ままなもんだと思われるかもしれない。

 

戦争、敗戦、高度経済成長、バブル経済を経験するというのは小説にもなりえない。事実は小説よりも奇なりを体現している。

これから僕たちはどうなっていくのだろうか。

 

 

もちろんのこと、戦争は経験したくない。
不景気ももうたくさんだ。感染症だってもういいかげんにしてほしい。
宇宙開発に旅立つのはかまわないけど、新しい紛争の種になるならカンベンしてほしい。

いまは江戸時代みたいな大きな紛争はない比較的穏やかな時期なだけで、これから黒船のような大事件が起こり、国という在り方から変えざるを得なくなるかもしれない。


理想を掲げれば、いまよりさらに豊かになって、平和で穏やかな日々であることを願う。
そのためにも、我々は歴史を学ぶ。
過去に間違えた問題を復習し応用問題にも最適解を見出せるようにする。ひとりの学生がするテスト勉強と同じように、国というひとつの集団が、人類というひとつの集団が平和や発展のために勉強しなおすきっかけにするのがこの日だと思う。

 

 

しかしながら、教えてくれる先達がどんどんいなくなってしまう。これは仕方のないことである。
だからこそ残された物や文字を通して疑似体験をするのだ。
まったく同じ経験をしないようにするということは、風化することとニアリーイコールである。経験しなければ記憶はなくなっていくから。
だからこそ、疑似体験を通して記憶を再構築する。当時の経験・記憶とは別物だけど同類として記憶を作る。これによって記憶は伝えられながら、同時に更新されていく。
記憶というのはそういうものだと修士論文でたどり着いたところである。

 

 

2045年、僕は48歳。
戦争から100年が経過したとき、僕は親として、壮年の一人の男として、僕は経験していない疑似体験の「記憶」に向き合い、記憶を伝える側になるだろう。
伝えられるように今はしっかり伝えてもらう必要がある。収集する必要がある。
それは義務である。