〈1056.大学という場所〉
8月18日。
すごく偏った話をする。
大学ってなんだろうという話。
先日、高卒で仕事をしている地元の友人と飯に行った。仕事をしているけれどこれといって目標もなく、同時にこれではいけないと考えていたらしい。その打開策として大学に入学するのはどうなんだと聞いてきた。
僕が大学受験をした時、同じ部屋に僕の両親より明らかに年上の方々がいたのを鮮明に覚えている。大学は学ぶための場所である。年齢はほとんど関係ないアカデミックな場であるはずである。
しかし、それでは現実と乖離しているというほかない。大学進学は学歴をあげて就職に有利にするためであったり、まわりも進学するからなんとなく進学する人がほとんどだろう。かくいう僕もなんの疑問もなしに大学進学を当たり前のこととして享受した。
何のための場だったんだろう。
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今、僕の目の前には一冊の本がある。
大学4年間の〇〇が10時間で学べる本。
僕が大学4年間で学んだことは10時間程度のことだった。いや、実のところ10時間も満たないかもしれない。専門性もなければ自信もない。
じゃあなんのための4年間だったのか。
おそらく大学進学した友人の何人かは、希望する仕事に就くためには必要な資格としての大学進学だったのだろう。そして何人かは遊ぶ自由時間のための4年間だったろう。僕もこれに当たるかもしれない。
大学の学びを仕事に活かすのはたぶん少数で、ほとんどは学部のことは置いといて仕事をしているんじゃないのかな。
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大学の専門的な話はぶっちゃけ独学でどうにでもできると思う。10時間で学べる本があるように、大学の学びだって学問からしたら導入に過ぎない。
大学院に進学して初めて、学問の入口を通過できるんだと思う。
つまり、根本的には大学は小中高と地続きで、学び方を学ぶ場所なんだと思う。
小中高は世間の常識と協調性を学ぶ場だと思う。そして大学は専門性の入門と、そして自分自身について社会と照らして考える場所なんだと思う。アカデミックな場ではなく、教育の場ということだろう。
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自分に子供ができて大学に進学させるかと言われたら、答えはイエスでありノーでもあると思う。
一つのことに熱中してきた幼少期・少年期を探したら、自分探しの時間のために大学に行く自由を持っても良いかもしれない。
なんとなく生き方が定まっていて、迷わないような強いレアタイプな子供になったら大学に行く必要もないだろう。
進学するかどうかは子ども自身に決めて貰えばいい。親になる僕はそこをカバーできる財政的余裕を確保していることが必須条件になる。
貯金しようね。