ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1062.娯楽的視点〉

8月24日。

 

パラリンピックがついに開催だそうな。
オリンピックに比べるとメディアで取り上げられる量も少ない。仕方ないかもしれない。
内閣府のページを見てみると、身体・知的・精神の三つに障害が区分され、その合計は国民の7.4%程度だという。


NHKくらいしか放送してくれないのは、数字がとりにくいというのが正直なところかもしれない。かくいう私もどれくらい見るのかはわからないけど、オリンピックに比べるとと観ないと思う。
未来にそんなことを思っていたなあと思えるように、正直な思いを書いておこうと思う。気分を害してしまったら本当に申し訳ありません。

 

 

正直なところ。一番初めに思うのは純粋にスポーツとして応援できるのかわからないというのがある。
というのも、全体的に競技として健常者と違うルールになることが多い。だから、例えば同じバスケっていうくくりであっても、僕は経験したことのない競技である。


経験したことのないスポーツというのは純粋に興味がわかない。
水球に興味がないので観なかったように、パラリンピックは全てが経験したことのない競技である。だから観ない。

 

その中で、パラの水泳選手を取り上げたNHKの番組をたまたま観た。だから「知っている」競技になったから水泳は応援した。すごく単純な話だ。だからこそ、知ってもらうというのは大事なことなんだろうと思う。

 

 

もう一つ。
日常生活を送っている障碍者の方は特別どうという思いはない。僕と同じように生活を送っているだけだもの。多少目についてしまうのは申し訳ないが仕方ない。僕とは動きが違うということで気になってしまう僕がいる。しかしながら街中で転んだ人がいたら目で追い、何事もなかったら視線を戻すのと同じように、それが普通だと理解できればなにも感情はない。


しかし、スポーツをやっているとその違いが顕著になってしまう。だからどういう感情で観ればいいのか整理がつかないというのがある。
そのフォームが選手にとっては普通だし、改善に改善を重ねた結果だろうというのは、落ち着いて考えるモードの今ならわかる。しかし、チャンネルを回してプレーの様子を観たら、おや、と思ってしまう。

 

7.4%という数字の通り、これまで出会って来なかったというのが大きいと思う。生活の一部になってしまえばいいんだけど、なかなかそうなる機会がなかった。

 

 

そして、そういう認識をしているという自分にどう向き合ったらいいのかわからないというのが大きい。
社会的にも、障害がある方に理解を示そうという動きもあるし、多様性を受け入れる、というのもわかる。


しかし、それを多様性と認識してしまっていること自体が、「違い」を生み出してしまっているんじゃないかと考える自分もいる。
目をつぶる、ということではない。しかし、僕個人が「黒人・白人」という肌の色の違いについて何にも思わないように、「健常・障害」という違いについて何も思わないのが正しいと思う。
「白・黒」ということについては、確かに過去に迫害していた歴史があるのは知っているが、遠い過去のことのように思えるし、実際肌が黒くてもかっこいい人はかっこいいし、肌が白くてもダサい人はダサい。

 

これと同じ平等な視点に、障害という話になるとできない自分がいる。「助けてあげねばならない」というのも間違っているだろう。街中で落とし物をして困っている人がいたら助けるように、なにかトラブルが発生したら人としての良心を持つ者として助ける。それがあるべき姿である。

つまり、逆にこれまでの生活の中で、特別に扱い過ぎているがゆえにどうしたらいいのかわからないというのが正直なところだ。

 

 

例えば、野球を娯楽の一種として観戦するおっさんがいるように、スポーツ観戦というのはただの娯楽に過ぎない。勝てば喜んで、負ければ悲しんだり人によっては起こるような。


そういう視点でオリンピックは観たけど、それと同じようにパラリンピックを見ることができない。理想的にはそうだと思う。
しかしながら、それ以上に障害を持っている人の「苦労」というところを気にしたほうがいいんじゃないかとかいう余計なおせっかい精神が現れる。


 

こういうメンタルを持っているんだということをきちんと向き合って、そのうえで「娯楽」としてパラリンピックを観たい。
国枝選手が選手宣誓をしたんだってね。金メダルだよもちろん。
たまたま車いすテニスを生で観たことがある。だから車いすテニスは、オリンピックの時と同じように同じ「娯楽的視点」で楽しむだろう。
他の競技もそうやって見ることにする。これからは。

 

言い訳の多い文章になってしまってごめんなさい。