9月6日。
先日参加した研究会は、大学の授業みたいな形式だった。オンラインなので複数部屋が用意され、そのそれぞれが一時間くらいの講義を一斉に開始する。それを朝から夕方まで実施する形式だった。
IT系の研究会ではあるものの、実際の製品の特徴を説明するひともいれば、開発のためのチーム開発のような人事系のひともいた。
ITの知識はまったく持ち合わせていないのでなかなか大変だった。だからこそ、話が上手い人とそうじゃない人の違いが鮮明にわかった。
話が上手い人は、優しい人だということだ。
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例えば、だれにでもわかるように「ケイドロ」の説明をする人を仮定してみる。
ケイドロとは、警察と泥棒に分かれて行う鬼ごっこみたいな遊びである。ドロケイという人もいれば、まったく違う名前を上げる人もいるだろう。
そこは置いといて、仮にその遊びのことをまったく知らない人に説明しようとする。
説明A「警察は泥棒を捕まえて、逃げられないようにする遊びです」
説明B「鬼ごっこのように、鬼と逃げる役に二つに分かれます。そのうえで逃げる役は捕まってしまった人を助けることもできる遊びです。この鬼を警察、逃げる役を泥棒といいます」
わかりやすいように差を付けたけど、こういうレベルの説明の上手い下手はあると思う。
説明Aは知らない人に対しても、「警察・泥棒」という専門用語をかみ砕かずに用いる。説明Bはあえて「警察・泥棒」という言葉は使わずに説明し、後でその用語の説明をする。
これを、例えば新製品のプロモーションだと考えてみるとどうでしょうかね。その製品を使う上では理解しておくべき単語を、なんの説明もなしに用いるのは不快感この上ないだろう。
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もちろん、その業界人が集まる場だからわざわざ単語の説明をしないという講演もあった。それはその前提を共有した上で講義を始めているから知らない私が悪い。
しかし、開発チームがこのようにして円滑なコミュニケーションができました!という一種のハウツー系の講義でこのような説明だった。
社内用語やチーム内の用語をガンガン用い、視聴者置いてけぼりだった。
この違和感・嫌悪感・不快感は、いわゆる「意識高い系」に近いものがある。
「意識高い系」のなにが嫌なのかというと、別に様々なことに大して知見を広げていることじゃあない。その広げた知識をひけらかすこと、知らないことを卑下し否定することが「意識高い系」と揶揄される原因である。
つまり、ハウツー講義の人も、別に卑下する意図はなかっただろうけども、自分が発見したことをはやく伝えたいという「自己中心的な伝達欲」が露呈してしまっていた故に不快感を与えていたんじゃないかと思う。
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逆に説明がめちゃめちゃ上手い人もいた。
難しいITの話も、横文字は使わずに咬み砕いた上で日常語を用いるといったワードチョイスだった。時々横道にそれて、開発秘話で自虐的な内容を話す中で、専門語のフォローをする、というような敷居を低くした用語の説明だった。
これは、聞き手のモチベーションを最大限配慮した話の作り方だった。平易な単語で説明し、興味がそそられるような話題の中でそれとなく用語を説明する。
つまり、相手の立場に立てる優しい人は、説明も上手だということだ。
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僕自身、テニスの話になるとやってる人にはわかるけど、やってない人にはわからない単語を使いがちである。
というのも、単語を知っている前提で話せば、無駄な説明を省けるので自分が話をしたいことにはやくたどり着けるからだ。
それは結局自己満足であり、自分が面白いと思ったものを伝えたいというあくまで自己中な思考回路である。
それをいかに面白く伝えられるのか、を考えられるようになったらモテるんでしょうな。