ホウチガブログ

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〈1084.現代文の授業です〉

9月15日。

 

前も書いたかもしれないが思い出したので書いておく。「羅生門のニキビ」について。


多分高校の授業とかで「羅生門」は読んだことがあるかもしれない。内容を覚えてなくても、名前だけでも聞いたことある人が多数だろう。


芥川龍之介の小説。職を失った下人が、雨宿りしていた羅生門で死人の髪の毛を集めていたおばちゃんと出会う。その人の話を聞いて、その下人も盗人になっちゃう話。そんな感じだと記憶している。
そのなかの「ニキビ」の表現に納得いかなかったのだ。

 

 

ニキビがどういうふうに登場していたかというと、羅生門でぼーっとしていた下人が自分の顔にあるそれをいじっていた、おばちゃんからの話を聞き終わったときにニキビから指を離しおばちゃんに掴みかかって服をはぎとる、というふうである。

 

ニキビというのは未熟な若者の象徴として描かれており、それから指を離すというのは一種の覚悟が決まったということになる。

確か当時の現代文の先生はそういうふうな読解を教えてくれた。

 

しかし、当時の未熟な私には納得いかなかった。ニキビが未熟な若者の象徴というのは深読みしすぎだろう。そういう情景描写のひとつに過ぎんのだろう。そう思っていた。

 

 

いやね、天下の芥川さんがそんな意味深な情景描写をしといて意味を込めないわけがないだろう。
そもそも文章を書くときは、全てが興味をそそるor興味を損なわないように気を付けているんだろう。すべての情景描写に意味があるのがほとんどだろう。

しかし、当時は納得いかなかった。そんな象徴的な意味を与えているとはどこにも書かれていないじゃないか、どこからそんなことが読みちょれるんやと、授業後に先生にしつこく聞いた記憶がある。しかし先生の回答を覚えていないということは納得いかなかったのだろう。

じゃあ、大人になった私なら当時の僕になんと言っただろう。それを考えるためにも、ちょっと現代文の授業をしてみましょう。

 

 

ネットで調べてみると、「その男(下人)の良心の葛藤」だと書いている人もいた。盗人の肯定・否定の葛藤だという。

これはどういうことだ。


最初にニキビの描写が出てくるのは、荒れ果てた羅生門のしたで雨宿りする下人(男)が右頬のそれを気にする、というものである。下人が若者だというのはない。

 

しかしながら良心の葛藤なのか。

ちょっと読み進めると、下人が「手段を選ぶ余裕はない、でも実行に移す勇気がない」というのが書いてある。つまり、盗みや殺しが横行していた京都の羅生門付近にいる時点で、ある程度それを念頭に行動するほかないとわかっていながらも、勇気が出ていないのがこの下人ということである。

 

寒くなったので羅生門にあがると、最初に説明したようにおばちゃんが死体から髪の毛を奪っているのだ。このおばちゃんを見て、下人は正義の心が勢いよく噴出してきておばちゃんを捕まえる。

おばちゃんが「死人も悪いことをしていたけども生きるためには仕方ないことだった。そしてわたしがすることも生きるためには仕方ないこと」というのを、下人は「ニキビ」をいじりながら聞いているのである。

おばちゃんの話を聞き終わったところで、勇気があふれ、ついにニキビから手を放しておばちゃんの服をはぎとる。


つまり、いじいじ悩んでいた象徴としてのニキビである。
どうやら貧しく不潔の結果生まれたニキビは最後の「良心」であったようだ。そしてその良心を捨てたのが黒洞々たる夜に消えていった盗人である。

 

 

結論。

若者という文はなかったので、未熟な若年の象徴というのは誤読だろう。それよりも、「良心の呵責」の象徴というのがニキビの正しい読み取りで間違いない。
当時の納得いかなかったのは、誤読だったというのもあるし、そういう情景描写に深い意味を見出す能力がなかったからだろう。

こういう面白さが現代文の醍醐味だよね。