〈1109.フィクション〉
10月10日。
円谷英二の伝記を小さい頃に読んだ。特別ウルトラマンが好きではなかったけど、なんでだろうね。表紙のイラストのおじさんがかっこよかったのかもしれない。彼がどんな人生を送ったのか、そのほとんどは忘れてしまったが、どうしても忘れられないページがある。
導入の5ページくらいの話。
ウルトラマンが最初に放映されていた当時の最終回の話だった。ウルトラマンは宇宙に飛び立っていく描写とともに、テレビにかじりついていた少年たちは窓を開けて大きな声で叫んだそうな。「ありがとう!ウルトラマン!」
なぜかわからないけども、少年の僕はそのページはなんども読み返していた。
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不思議だったのかもしれない。ウルトラマンは現実にはいないし、怪獣だっていない。いないからこそ平穏な生活を送れているわけだ。
しかしながら、窓をあけて感謝を伝えたくなる。少年たちもわかっているんじゃないか。ほんとはいないことを。それなのに。
だが、それだけじゃないからそのページを何度も読んでしまったと思う。僕自身、フィクションなのにキャラクターの平穏を祈ってしまうことがあった。
ドラクエ3のエンディング。主人公は故郷を離れ、もう一つの世界を支配する魔王を討伐に出かける。無事魔王を討伐し、もとの世界に戻ろうとするものの、魔王亡き後では異世界に干渉する手段がない。主人公は異世界に閉じ込められ、無事を祈っている故郷の母に会うことが許されない。
だからこそ、ドラクエ1、2へとつながるロトになるんだけども。プレイした小学生の僕は母と会えないというのがとんでもなく悲しく思えたものだ。母の安らぎと主人公の無事を祈って、目を閉じて電源を落としたもんだ。
これはウルトラマンに感謝を伝える少年たちと同じであると思う。
フィクションなのに、現実しているかのような錯覚を覚える。
これが本当にうらやましい。
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今まさに、僕も祈りを捧げてしまっている。
ストーリー重視のスマホゲーム。主人公は焼却されてしまった人類史を取り戻すために、過去の英雄を使い魔「サーヴァント」とともに様々な時代、並行世界などを旅する。
この世界を取り戻すということは、この世界が焼却されたことによって成立した異世界を潰すことになる。その異世界を旅する中で仲良くなった少年・少女、仲間は当然世界の消滅と共に「そもそも存在しなかった」ことになってしまう。それでも人類史を取り戻すための旅をする、というのが悩ましいところである。
ひとつの世界を潰し、人類史を取り戻すたびに祈らざるを得ない。君たちの犠牲があるから僕たちは生かされているのだ。ごめんね、ありがとう、と。
こんなおもっ苦しいゲームだからこそ、続けてしまう。きちんと終わりを見届けなくちゃと思う。これが「FGO」である。
よく歴史を勉強している開発陣だし、だからこそ本当にあるかのように、いやたぶん本当に存在しているんじゃないか。そう思える。
だからこそ、のめりこみ、現実とフィクションの境界が曖昧になる。
それが本当にうらやましくて仕方ない。
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物語というのは現実と他の世界の境界を曖昧にするとんでもない魔法だと思う。
もちろん効果は協力には持続しないけど、永遠にどこか頭の端っこに居続けることになる。
ウルトラマンに感謝を伝えた少年は、今はもうハゲはじめたじじいだろう。それでも本気で応援していた時の記憶は残っているはずだ。その熱量がどこかで生きるモチベーションになってたりもする。
僕は誰かの熱量になりたいとは思わない。自分が作り出した世界が、この世界との境界を曖昧にして、場合によっては侵食しあって、もう一つの世界を成立させたいと思う。危険な言い方をすれば、僕は僕のための理想郷を作り出したいのかもしれない。それは平和が全てではない争いに溢れた世界かもしれないし、厨房で必死になるようなものかもしれない。なんだかわからない。
とにかく、僕は物語をつくりたい。鉄砲より、戦車より、教科書やペンより、恐ろしいパワーを持っているのが物語だと思っている。
ああ!うらやましい!