ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1142.良い気づきの日〉

11月12日。

 

今日は良い気づきの日だった。
人と話をするときには、当然人の目を見る、あるいは顔を見る。それはたとえ人間でなくてもそうで、モノとして認識しているものでも無意識に顔を探すらしい。
ゾンビのような元人間だった存在を認識するときにも最初は顔を探すだろう。グロテスクなゲームやアニメ、映画の宇宙人でも顔を探すだろう。そして人間とかけ離れた顔つきをしていることで恐怖や気持ち悪さを感じる。無機物でもそういうものもある。車や新幹線もそうだろう。

リモートでのコミュニケーションの難しさは、そういう視点の交わりの感覚が薄いところにある気がする。

 

 

リモートワークで初対面の人たちと会うことになった。1時間くらいの談笑で和やかに終わったけども、同じ時間をリアルでの会話で過ごすことができたらもっと踏み込む会話ができただろうとどこか不満足なところも感じた。
画面越しの会話にも慣れてきたし、若干のラグにも問題なく対応できるようになってきている。しかし、目と目が合わないのは本当に残念である。お互いカメラのあるパソコン上部を見るわけではなく、その10cmくらい下の画面中央を見る。
となると、どんなに顔と顔を合わせているとはいえ、どこか目があっていない、コミュニケーション不全である感覚がある。人によってはカメラをパソコンとは別に用意して、「斜め前からの目線」という日常会話ではありえない角度で顔を見せられることもある。

となると、人間同士なので当然顔の認識はできるけども、相手の目を見ているのに相手はこちらの目を見ていない、という異質な空間での会話が強制されることになる。
この視点の交差がないこと、これが違和感の正体なのだろう。

 

 

話は変わるが、お化け屋敷のお化け役をやったことがある。
物陰に隠れて、人がやってきたら後ろからうめき声を上げながら近づく、という典型的なお化けである。
それをやっているときにも、やっぱりお客さんは目を見ようとしてくる。
どんなに服装をぼろぼろで気持ち悪いようなものにしても、顔、特に目の周辺を異質なものにしない限り、あまり驚いてはくれない。場合によっては「ああどうも、お疲れ様です」と「人間」と認識されてしまう。


そこで目の周りを包帯で覆ったり、そういう化粧をちょっとする。たったそれだけでも僕のことを「人間」と認識する人はグンと減った。

つまり、まなざしを読み取れれば人間であり、それができない存在になると異質なものとして認識するという方法を取っているんじゃないかと思った。

 

 

リモートワーク推進の時代になって、多様な働き方ができるようになった。とてもいいことである。
しかしながら、仕事じゃないときの飲食や休暇のときにも画面越しで済ませるのはちょっと違うような気がしてしまう。もちろん、まだまだ感染症の脅威が去ったわけでもないので、何も考えずに飯に行こうと言い出すのは無責任だろう。
でもやっぱり、直接会って、お互いの目を直視したり外したりしながら進める会話っていうのは、必要な気がしちゃうんだよねえ。