ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1146.良い大人の日〉

11月16日。

 

今日は良い大人の日だった。

久しぶりにいろんな友人から連絡があった。
大学院の友人や高校の時の友人。どちらも僕と同じで来年から社会人になる人たちである。
我々は25歳になる世代であり、四捨五入で30代になる。もうガキンチョというには歳をとりすぎた。
同い年の友人たちと話していると、結局僕たちは10代のころと大して変わってないんだと感じる。想像してたよりおとなはこどものままだった。

絶望とか落胆とか、そういうのではなくて、でもまあそっかあみたいな、受容せざるを得ないというか。
まあもっと聖人になっていたかったなあと思うかしら。

 

 

高校生になった時、想像してたより高校は子供の場所だった。
大学生になった時、想像してたより大学は子供の場所だった。
大学院生になった時も同じである。
いくつになっても、想像してたより自分は大人ではないのだ。


ということは、自分が思い描く「大人」は想像してたよりも非現実的で絵空事だったようだ。

書いていて気づいたことだが、その「絵空事」を追いかけている時点で、僕はいつまでも子供なんだろう。


そして同時に気づくこともある。おもったより、子供で居続けるということも難しいことなんだろうということである。
例えば、お金の問題が孕んでしまえば、自分が大事にしたいこと、趣味や遊びなどを手放さなきゃならなくなる。子供ができて子育てに追われれば、否応なく脱子供をして親にならなくては「親ガチャ失敗例」となってしまう。

つまり子供で居続けるというのは、どこまでも自分のわがままを通せる環境を用意している必要があり、親から離れてしまえば自分で用意しなくちゃならない。したたかさのもとに戦略的に子供になる必要がある。
それはもう「わがままで奔放ながきんちょ」ではないだろう。それが大人であるということだ。

 

 

アダルトチルドレン」という言葉が持つ意味はあまりに広すぎるので軽率に使うことは敬遠する。「ピーターパン症候群」という過度な幼児退行が起こっているわけではない。


この微妙な感覚ってなんていえばいいのかしら。苦しいわけでもなく、かといって積極的に受容するわけでもなし。ユートピアというよりは桃源郷というか。積極的に「大人」という理想に走るのは諦めて、どこかに消極的に求めるような「あったらいいな」みたいな「大人」がずっとある気がする。

 

「○○になりたい」という欲望はあくまで自分の在り方を問う話である。
一方で理想としている「大人」は自我を捨て他者のために生きるような人のような気がする。あるいはすべてを理性的に管理できる人間である。まさにユートピア科と思ったらディストピアだったような存在のようだ。それはオートマタやらアンドロイドに任せるほかない。


つまり、どこまでも人間は自分のために生きる存在であり、優しさ・強さというのも突き詰めれば自分のためであろう。

となると、自分が描く「大人」とは曖昧な理想だからこそ僕の頭の中では存在できるのであって、具体的に肉体を与えることは不可能だということだ。
それを僕は永遠に追い続けなければならない。辞めることももうできない。


だから毎年思うのだろう。

「僕は大人にはなれていない」
一種のあきらめであり、それで良しとする受容でもある。自己肯定とはこのことだろうという結論であります。