12月7日。
なにか選択をしたり、判断をするときに、あの人だったらどうするだろうと考えるのは良いことだという。啓蒙書などで時々見かける方法である。
意識することは少ないが、僕も脳内に何人か飼っている。批判的思考担当の院の先輩I、ノリの良さ担当の高校のチームメイトT、冷静担当のダブルスのペアM、面白いかどうかを判断する芸人Kなどなど。
これが結構大事なのである。僕一人では空っぽな感じがするもの。
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以前から読んでいる「トーキョーグール」では、主人公をはじめ、多くのキャラクターが「自分は空っぽである」と認識するようになる。それを埋めていたのは「正義」だったりするような、生きる理由であった。それが物語の展開で消失してしまって、代わりのもので埋めようというのである。
この考え方はなかなかしっくり来た。そもそもの個体では空っぽであろう。
それを社会との関係性から埋めるものを見つけ出す。それが見つけられない内はなかなか苦しいことになる。
高校までは家族がいて、友達がいて、部活で必死になっていたことで頭が埋まっていた。
それがなくなったのが大学一年生である。なかなか厳しい一年間だったことは忘れられない。三年生までずっと苦しかったのはなかなか埋めるべきモノが見つからなかったからだろう。
それが「なにかはよくわからないもの」に埋めてもらえて、同時に行動指針となる友人達や理想の人たちが頭の中に登場するようになった。
いまでも「なにかよくわからないもの」の正体はわからないけど、それが基盤になって指示・判断の系統が落ち着いたんだろう。
結局全て、外の存在に任せている。それが元・空っぽな人間の生き方なのかもしれない。
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外からの新しい情報がなければ退屈になり、退屈になると生きる意味や自分の存在意義を問うようになっている。
これは自分の中身を埋めてくれているもの(外から取り入れたもの)が活躍する機会がなくなり、表面を覆う自分のみで対応できてしまうからだろう。
そもそもの表面を覆っている自分という存在は意味を持っておらず、外との関わり、新しい刺激とのコミュニケーションの結果、それっぽい意味を見出しているのだろう。あるいは感情が生まれ、欲望が生まれる。
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何言ってるかわかんなくなってきたから終わりにする。
結局、自分の判断系統を担っているのは、自分であるけども同時にそれまでのコミュニケーションの結果だろうと思っているわけであります。