ホウチガブログ

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〈1175.鶏口牛後〉

12月15日。

 

”鶏口となるも牛後となるなかれ”ということわざがある。
大きい勢力に属するだけの存在よりも、小さくてもトップになれという意味である。
中国の紀元前の戦国時代のことわざらしい。韓という国が、強い秦に対抗するか、屈従するかというなかで、他の小国と連合することにしたという話である。

 

このことわざを最初に知ったのは、高校入試の時だった。
実力でほぼ入ることができる地元の高校か、やや厳しい遠くの高校のどちらにするかというときだった。
塾の勧誘の広告に書かれていた。「鶏口牛後です。あえてひとつ下げた高校でトップを狙うのも良いでしょう」というようなことが書かれていた。
それを受けて身近な先生はこういった。「とはいえ、牛の中にちゃんと入ることも大事。勢いがあるところでトップを目指すようにすればいいだろう。」

ことわざは基本的に本質を突いた言葉が多いけども、「鶏口牛後」だけは納得がいっていない。
だって、結局秦の始皇帝が支配したんだもの。


 

確かに平社員でいることよりも、小さい会社の社長になったほうがいろんな経験ができるだろう。
人付き合いも広がるし、いいことづくめであることに違いない。
つまり、鶏口牛後の牛後は、永遠の牛後であるという意味を含んでいるのだろう。
いやさあ、そんな奴は鶏口にもなれねえと思うぞ。

確かに、無理やりそういう環境に身を置けば、成長せざるを得ないってのはあるとは思うけどもね。
そして牛後であることに慣れてしまうと、より高みを目指すという気持ちも失せるだろう。
そういう意味では、意志の弱い人間は鶏口牛後というのは納得かもしれない。

 

つまり条件付きのことわざということである。
こういう真理をついていないことわざというのはあまり見ない。だからよく覚えてしまった。

 

 

真理をついていないとは言ったけど、紀元前200年ごろのことわざが2000年以上の時間が経っても残っているというのは、納得している人が多いのだろう。

では「鶏口牛後」はなぜ受け入れられたのか。


逆のほうが納得がいく。牛後でよしとされて安心する人は多いと思うからだ。会社でいえば平社員を肯定することになるし、学校でも成績下位者を肯定してくれる。人間のコンプレックスとなるような「下位」であることを牛後は肯定してくれるからである。

 

しかし、牛後は否定されるのだ。あくまで「トップであれ」という言葉である。
となると、社会との適合性が高いということか。
資本主義、新自由主義による競争社会で生きる上では、トップを目指して邁進することで利益を得ることができ、豊かな生活になる。

つまり、人生に疲れた人たち向けではなく、より高みを目指す人向けのことわざなのかもしれない。

 

 

とはいえ、僕はやっぱり牛後でも良いと思う。
その大きく勢いのある中でやっていくことも十分力を付けることにもなるし、牛後から牛口になれば鶏口なんて見えなくなる。
つまり、まずは牛の一部となることも良いんじゃないかと思うわけです。