〈1178.記憶の消化能力〉
12月18日。
ひさしぶりにDSの電源をつけると、当時そのまんまだった。2010年のセーブデータ。
主人公をはじめ、仲間達のレベルはほぼカンストしてて、技も全て覚えきっている。
ゲームボーイのほうのセーブできなくなってた。カセット自体の劣化もあるのだろう。仕方なし。
にしても、当時の画面、当時の音楽が、当然ながら楽しめる。これはとんでもなく嬉しいものだった。
中学生の気持ちになる。ゲームを遊んでいた当時の、テニスとか人間関係とか受験勉強とか、そういうもろもろが同時に脳を埋め尽くす。
こういうのってなんでいうんだろうな!
郷愁とも違う、もっと嬉しい気持ち。なんで嬉しいんだろうな。
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昔を思い出した時にどんな気持ちになるか。
基本的にはあのころはこんなことをしていたなぁと懐かしむ気持ちである。これは喜びであるような、悲しみであるような、プラスでもマイナスでもない、不思議な気持ちである。
しかし、嫌な思い出を思い出すこともある。自分の未熟さを思い出す時は怒りや悔しさである。完全なネガティブな気持ち。
一方で楽しい記憶もある。大会での勝利や友人とのカラオケなどなど。完全にポジティブな気持ち。
となると、ゲームを引っ張り出して良い気持ちになるのは、当時が楽しかったからだろう。
色々苦労したけど、マイナスなこともプラスなことも、全てひっくるめてヨシとできているからだ。
これを大人になったというのかもしれない。
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となると、思い出して嫌な気持ちになる記憶があるうちは、まだ成長の余地があるということだ。
先輩と喧嘩した記憶や納得できない憤り、友を失った悲しみ。これはまだ乗り越えられていないということだ。
「乗り越える」という表現だと障害物のようで誤解がある。そうじゃない、受け入れる、肉体の一部として取り入れるに近い。
つまり、悲しみの消化能力がまだ足りていないということだ。
この考え方であれば、仮に消化能力が強靭になればどんな悲しみも受け入れることができるということか。
たぶんこれをメンタルのキャパシティというのだろう。
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楽しい記憶だけあるハッピー野郎というのは、最強の消化能力を持った人だといえる。消化能力というのは、解釈力ともいえるだろう。
これは単純に頭の良し悪しじゃあない。
文豪が自殺しがちなように、賢いような人でも消化能力がよわっちいのもいる。
となると、どうすればこの消化能力は鍛えられるのか。
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ひとつには経験をとにかく積むことである。
人の死を一度しか経験していない人は、百度経験した人より消化できないだろう。
つまり、修羅場を超えて超えた人ほど、悲しみの消化能力は強いと考える。
しかし、経験を積むということは学習するということだ。悲しみも学習するので、似たような事例と出会った時には前よりも悲しくなってくる。これを地雷という。
つまり、悲しみの消化能力は度を超えない限りは地雷を増やすだけだろう。
一般的な老化による涙腺の緩みはたぶんこれだ。
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ここまで考えて、悲しみの消化能力が強いことが幸せなことだとは思えなくなった。
それは感情の消失とも言える。
100人の死と向き合うというのは決して喜ぶべきことではないだろう。
つまり消化能力を強化した末には狂気があるだろう。
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感情豊かであるくらいが幸せだと思うな。
たとえ嫌な記憶で溢れていても、それはまだ幸せな記憶も同じくらいあるということだとも言えると考える。
ひさしぶりに記憶と同じことやってみろよ。幸せだぞ。