12月19日。
おいしい牛乳を飲んだ。
一昨日のおいしいとは文脈がうまい、という話とは矛盾してしまうが、牛乳としてうまかった。
それくらいうまかった。
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千葉のKURKKU FIELDSという農園のようなところ。
いまはまだプレオープンということで全てが完成したわけではないらしい。とはいえ広くて遊具があったり羊や山羊がいたりと、すでに楽しいところだった。
そこでしぼりたての牛乳を売っていた。
ブラウンスイスという品種を飼っていたので、その牛乳だろうか。
ホットとアイスを売っていたが、アイスをおすすめしていた。牛乳が上手いかどうかは冷たい牛乳が一番わかりやすいと思う。
なんというか、とにかくさっぱりしていた。口当たりはもう水みたいなさらさら感だった。
それがのどを通った後には、濃厚でミルキーな匂いで満たされる。
不思議な牛乳だった。
これまでは、「おいしい牛乳=濃厚さ・ミルキーさ」が大事だと思っていた。
どうやらそうでもなさそうだ。
まったく新しいおいしい概念と出会った。
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しかし、今回一緒に行った人はそれほどな反応だった。
たぶんそもそもそんなに牛乳に対して感情がないからだろう。
つまり、僕自身すでに牛乳をおいしいという概念をもって向き合っていたから感じ取るものなのかもしれない。
そんでもって、そういうちょっとした観光を経ての牛乳なので、文脈として既にうまいのだ。
つまり、一昨日と一緒で、結局文脈として既に上手かったのだ。
とはいえ、それをうまいかどうか判定できるにはそれなりに他のうまさを知っている前提が必要だ。
「単純なうまさ」+「文脈としてのうまさ」=「感じることができるうまさ」
ということになるのかもしれない。
その「単純なうまさ」のほうは個人によって数値が変わってくるだろう。
「文脈としてのうまさ」はその対象との出会い方である。
これは「うまさ」だけじゃあないかもしれない。
いわゆる形容詞ならなんだって当てはまると思われる。
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感情の表出とはそういうことなのかもしれない。
感じ取るセンサーが人によって違うのは「単純な○○」のレベル感が違うからであり、それは個人の経験値によるものだろう。
記憶への定着具合が違うのは人によって「文脈」が異なるからだ。
ほかの感情はどうだろう。本当に当てはまるだろうか。
あとで考えてみよう。