〈1191.更新し続ける理由について〉
12月31日。
2021年も最終日となりました。
みなさん、良いお年を。
と、こう書いてはいるものの、この文章群ははたして読み手を意識して書いているのだろうか。
これは長い間考えていたテーマなのですが、ほとんど読者を気にしていないように思います。
相手を考えていると、僕はやっぱり敬語を使いたくなるので、独白、日記という類のほうが適切なんだろうと思います。
。
もともとを振り返ってみると、僕がこういう文章を書くべきだと考えるに至ったのは日記を書ける人になりたいと思っていたからであり、良い文章家になりたいから毎日書くんだというのは後付けだったと思います。
なんで日記を書きたいのかしら。
毎日、ふと考えたことが数日後には、数時間後には、数秒後にはなかったことになる。この世に産み落とされることはなく、雲散霧消すること、それがなにか虚しいように思えたからでしょうか。
そんなにかっこいい理由ではないか。
とりとめもないアイデアを残しておきたいと思ったからかもしれない。
かっこいい人が日記をしていたからかもしれない。
松岡修造が日記を書けと言っていたからかもしれない。
その程度のことだ。
人様にみられている負い目があるから細々と続けるような、その程度のモチベであった。
それが辞めるに辞められなくなっている。それだけである。
。
とはいえ、個人的にはかなり重要な役割をホウチガに与えている。
僕にとってこの1191の文章たちは、航海日誌なのである。
航海日誌というのは、船の速度を算出して記録することが元々の役割らしい。
それによって港からどれくらい遠くにいるのかを把握するためだったとか。
今となってはデータの記録や突発的な出来事、日常業務を残すためでもあるとか。
万が一の事故のときの証拠にもなるのかしらね。
僕にとってのホウチガの文章は、毎日どうやって生きているのか、何を考えているのかを残しときたいと思っているところもある。
自分の考えの軸を再認識したいというのがでかいだろう。
そして同時に、僕でないどこか知らないいつかの未来の人間が
「こうやって生きた人がいるのか」
と、悩みを共有したり、馬鹿にしてもらったりするような、壁打ちの材料になったら良いかもしれないと思っている。
鴨長明の方丈記なんていうのはまさにそれだろう。
当人が何を考えて書いたのかは置いといて、現代でも読まれるのは何百年も昔の人も苦しんで、同時になにかに感動して、というスケールの小さい当時の生き方が見えたのがうれしいからだろう。
僕の文章はもっと乱雑で稚拙だけども、いつか息子・娘が読むかも入れない。親戚の子供が読むかもしれない。
いじめられてネットの世界に逃げた若者かもしれないし、貴族の暇つぶしかもしれない。
なんだっていい。どこかで読まれて、ふーんと流されてもいい。
なにか生きた証拠が欲しいのかな。
。
いつの間にか敬語が失われているのは、やっぱり僕が僕の世界にこもり始めたからでしょう。
これからもたぶんそうなります。すみません。
完全に自己満足の文章とわかったところで2021年も終わりです。
今年一年もありがとうございました。
来年はもう少し、まとめて更新に頼らずに、毎日更新になるように頑張ります。