2月3日。
MAFIA2というゲームがある。
チェコのゲーム会社が作ったシリーズ作品であり、第二次世界大戦前後のアメリカのマフィア社会が中心の箱庭ゲームである。
その2を最近になって知る機会があり、ストーリーを楽しませてもらった。
これが非常に面白い。
1のほうが好きではあったけども、2のほうが翻弄される主人公の様子がなかなかに刺激的である。
人間の動きや表情の変化もかなりつくりこまれていて面白い。
そのなかで、主人公がいかにしてマフィアになっていくのか。それが面白かった。
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1940年代のアメリカが本当にそうだったのかわからないけども、なかなかに生きていくのは難しい環境だったようだ。
イタリアからの移民の主人公一家は厳しい毎日を過ごさざるを得なかった。
あとは単純に治安の悪い地域だったこともあるだろう。
犯罪によって金を得て、そうやってどんどんワルになっていく。
そんな中でなかなか考えさせられるシーンがある。
主人公の父が働いていた船の荷物倉庫に主人公も働きに行けと母親に諭され、ワルの主人公は行かざるを得なかった。
それで仕方なし荷運びなどをするけども、かなりの低賃金である。
それが気に食わない主人公は、一回盗みをすれば一カ月分以上の収入が得られるということで、現場を離れる。
もちろん、金が大事だったのはあるけども、それでも貧しいなりに安定した毎日は送れるだろう。
それは現代でも同じである。
しかし、それではつまらない。鉄砲をもって、大金を得られる仕事が良いという選択を主人公はする。
これは単純に成り上がりたいという欲望の大きさもあるし、同時に刺激がない人生は勘弁だといったところだろう。
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同じタイミングで、僕は派遣のバイトをしていた。
毎朝電車に揺られ、それから退屈な倉庫作業を夕方までやって、一日一万円くらいのバイトである。
悪いとは言わない。しかし、似たような仕事をしている社員の人はおそらく倍くらいはもらえる計算である。
しかも仕事も永遠に同じようなものだ。
主人公と同じ思考に至ってしまう。「つまらない。こんなことなら。」
「退屈は犯罪です」という広告がちょっと前に炎上していた。
他人に犯罪だと言われるのは良い気はしないけど、退屈というのは罪深いものではあるのは理解できる。
生きている心地がしない。人生の最大の無駄は退屈だろう。
そんなことをするなら、パチンコやスロットで一発当てたくなるのもわからなくはない。
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もちろん、僕の場合は日雇い労働のようなものなので退屈な毎日にはすぐ終わりが来る。
それに加えて、休憩時間は休めるし定時がくれば帰って良しである。
おかげで倫理観が崩れることもないので、もとの真面目な僕に戻ってくる。
僕はMafiaになることはないし、それを良しとは思えない。
しかし、もし本当に日雇いの毎日になってしまうというのであれば。
IFの世界線がどうなるかまでは否定できない。
おかげで、犯罪者は悪者だという短絡的な発想も消えてくれた。
きっとそういう経過を経て、犯罪への道が見えてきてしまうのだろうな。
となると結局、人生は暇潰しと言えるのかもしれない。
そういう格言とか名言は多くあるようだ。
僕も壁の拭き掃除を5時間くらいしていたら、その考えが理解できた。
Mafiaの主人公は誰かが作った物語の中の、作られた人形である。
しかし、僕という存在もそんなに変わりないんじゃないか。僕にとって、僕はプレイヤーであり、操作対象であるけども、あかの他人からしたら、どこかの物語で出てくる人形と大差ない。
「僕の人生」というゲームの中の「仕事」というゲーム、「趣味」というゲームなどなど。
それは「ドラクエ」というゲームの中で「カジノ」というゲームコーナーで遊ぶようなもので。
コンピュータゲームとは、リアルであり、道筋が作られていない点が違う!
しかし、初プレイのゲームと大差ないぞ。あるのは、実際のライフはたった一つだけということだ。
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それに加えて、生きるというのは常に他人との関係で形成されていることだ。
ゲームの中の他人は、NPCだったり顔も本名も知らないだれかである。
社会的責任・法的責任の重さが違う。
そういう意味では、まるっきりゲームと同じではないだろう。
でも、そんなに命が大事だと考えすぎると、退屈な荷運びでGameOverを待つような生活で良しとしてしまいそうだ。
たまにはリスキーな戦いもできるような場面がほしいもんだ。
それが趣味という別のゲームなのかもしれないし、仕事というゲームなのかもしれないが。