2月4日。
昨日の話の続きになる。
例えばFF、ドラクエ、ポケモン、マリオ、ゼルダ。
いわゆるRPGをするときって、どんな気持ちなんだろうか。
もちろん、目の前の戦闘で勝ちたいとか、冒険が楽しいとか、そういう具体的な感情の変化はあるだろうけど、それってなにが楽しいんだろう。
言ってしまえば、自分じゃない何かが戦い、冒険しているだけである。なぜ自分の感情が動かされるのだろうか。
もっと他の例を出せば、小説とか漫画とかの楽しさにも通ずるだろう。自分じゃない誰かが躍動する物語で、なぜ自分まで躍動している気になるんだろうか。
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物語の大元をたどれば、たぶん人の話だろう。人の語りを文字にすれば昔話のようなモノになる。
人の語りの面白いところでいえば、目の前にいるそいつが昨日はちゃめちゃな経験をしたというイメージが面白いということだろう。しかし、同時に自分もそこにいたかのような巧みな話者であればあるほど面白い。
つまり、他人の行動と共にすることでその経験を疑似体験しているのが面白いということだ。
しかも、そういう話というのは、つまらないところは極端に短くすることができる。
二時間待たされたという話は5秒で終えることができるし、5時間も歩きまわったのは一歩も歩かずに経験できる。
小説であれば言葉で、漫画であれば描写で、ゲーム・映画であればビジュアルで、その経験を共有できる。
つまり、他の人の分まで生きれることが面白いかな。
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いわゆる箱庭ゲームというのはその最たる例だろう。
まるでゲームの登場人物であるかのように、その街やエリアを闊歩できる。
ドラクエなんかでも、船や移動手段を確保すれば自由に世界を歩き回れる。
しかし、ここで疑問がわいてくる。
物語にその自由さはない。しかも、ある程度その物語のレールの上を歩かざるを得ない。
となると、「人生を生きている」ような、未知を探る「生きている感覚」はない。
じゃあ漫画・小説の物語とゲームの物語は別物だというのだろうか。
とりあえず前者を伝聞型他者人生、後者を体験型他者人生ということにする。
どちらの他者人生だったとしても、何かをしてその結果を得るという「選択→応答」がなければなにも面白いことはないだろう。
つまり、たとえ結果ありきのレールの上の物語だとしても、その主人公に自分を乗り移らせてその人生を楽しんでいるんじゃないかと思う。
だから、語りが上手い人というのは、間や勢いを上手く使って話にのめりこませてくる人である。
逆に下手な人というのは、最後まで「今ここ」から聞き手を引きはがすことができずに冷ましてしまうような特徴があるのだろう。
ゲームでいう「バグ」というのはそのわかりやすいところだ。ゲームをゲームだと認識させてしまう興覚めポイントである。
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そして、この伝聞型他者人生と体験型他者人生のどちらが優れている、というのはなくて、人の好みによるものだろう。
いずれにせよ、自分の人生だと物足りないところや退屈をしのぐために他人の人生に顔を突っ込むのだろう。
なので、顔をつっこむのに敷居が低いことが良いだろう。説明が多いといやになっちゃうもの。