ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1228.もしもの話〉

2月6日。

 

今目の前に鉄砲を持った暴漢が現れたら、はたしてどう対応をするのか。

ちょくちょく考えてしまう。そしてその結果は日によって異なってくる。


「今日だったら生きたいと強く願うだろう」
「今日は命乞いせずに腹をくくれそうだ」
「今日は他人をかばってでも死ぬ勇気がある」
「今日はいかにして鉄砲を得られるか、知略を巡らせるだろう」

などなど。
それぞれどんな気持ちなのか、考えてみよう。

 

 

「生きたいと強く願う」
これはいつでも基本はこれだ。
まだ死ぬわけにはいかないし、今死んだら色々とやり残しがあるし、後悔が残りそうである。
これを書いている今だって、もし背後に突然暴漢が現れたら、たぶん逃げ惑うだろう。

 

「腹をくくる」
これはよっぽど色々なことを考えた時に考える。
僕という個人が生きる意味というのは、宇宙や歴史というマクロな視点で考えれば取る足らないことである。
そういう超人的思想に至った時にはこれになる。

 

「人を庇う」
かなり慈悲深いモードの時にこれである。
同居人であったり、仮に子供ができたとき、なんていう守るべき対象を意識した時にはこれになる。
腹をくくるモードと同じように、自分の生の天秤が傾かない時である。

 

「知略を巡らせる」
これは漫画を読んだ後の状態である。ジャンプ系の漫画を読んだ後は基本的にこれになる。
距離を詰めれば鉄砲は怖くないとか、鼻や首、みぞおちを殴りつければ動けなるとか。そういう話を見聞きした時にはこのモードになる。まあ実際はそんなにうまくいくわけないだろうが。

 

 

ということで、死ぬ間際のことを考えてみてもその前後の文脈で大きく変わるような気がする。
これが試合の前とかでも同じである。絶対に勝ちたいと思うか、勝てればよいと思うかなどなど。その時のメンタリティで試合の内容まで大きく変わることもある。
常に死に対して思いがある状態、つまり戦地などではそれまた大きく違うメンタリティになるのだろう。

平和ボケするのもやだし、かといって死と隣り合わせな生活をするのも勘弁である。
ただ、なにごとにおいても心構えのあるなしでは、行動が大きく変わるだろうという話である。