ホウチガブログ

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〈1243.作品と作者の関係〉

2月21日。

 

ある作品のファンになりすぎて、自らもそれに則って作られた作品は二次創作という。
日本は特にこの二次創作文化が大事で、ファンコミュニティをいかにして育て、守るかという意味では、二次創作は必須だったりする。らしい。

 

そんな界隈でまれによく聞く話。
「そんなん公式が勝手に言ってるだけやん。」
例えば、ヒロイン「ヒカリ・カスミ・ハルカ」と主人公「タカシ」ライバル「サトル」が出てくる「ジャケットモンスター」という作品があるとしよう。このカップリング論争が激しくなり、二次創作でもヒカリ×タカシだ、いやカスミ×タカシだ、そんなんカスミ×ハルカやで、実はタカシ×サトルなんていう話はたくさん見かける。
そんな中で、アニメやゲームの進行によって、公式でのカップリングが明らかになったりする。
そんな時に、公式が勝手に言ってるだけだと主張を始めるのだ。
こんな滑稽なことはない。と思うけど、案外面白い主張だと思った。
かくいう僕も、その思考に陥るのはあるからね。

 

 

普通は、作者が生み出した世界なんだから作者であり公式が正解である。
それに異を唱えたくなるというのは神に抗うキリスト教徒、のようにわけのわからない状態である。

 

ただ、作品ではなく、リアルの話だったらどうだろう。
きみ子とよし子は3年B組の仲良しである。
その話を3年D組のあなたは時々聞くし、きみ子・よし子と仲が良い。
そして、教員の佐藤先生は生徒の恋愛事情が大好きで、色々とあなたに話をしてくる。
「きみ子って一郎のことが好きらしいよ」「よし子も一郎が好きなんだって」「この前よし子が一郎とガストに入るの見たんだよね」

しかし、きみ子・よし子と仲のいいあなたは、そんなのは違うぞと言いたくなる。
「きみ子とよし子は、それぞれにサブローと武が好きなんだぞ。佐藤先生はそれの一部しか見えていないだけだ」

これにかなり近い状況が、「公式が勝手に言っているだけ」という感情だと思う。

 

 

先ほどの「ジャケットモンスター」、縮めてジャケモンの話に戻す。
ジャケモンファンにとっては、確かにアニメやゲームで話が展開しなければそもそもファンにはなりえない。
しかし、ある程度の話が展開し、設定や世界観が浸透してしまえば、公式を待たずして物語は勝手に展開してしまう。
その一つが自らの妄想であり、その一つが二次創作である。
そしたら、そっちでも世界が展開し、楽しむことができる。

 

これはまさに「きみ子・よし子・一郎・サブロー・武」が登場する3年B組の話と同じである。3年B組の話、3年D組のあなたは共にリアルに存在する話であり、佐藤先生を介して聞こえてくる恋愛話もリアルであろう。
しかし、リアルらしさというのは、それぞれの人間の特徴が明確になってきて、その背景もわかってきた時に細部までつじつまが合ってうまれてくるものだ。
それは、誰かが生み出した作品でもあり得ると思う。

「ジャケモン」という作品においても、登場人物のリアリティに磨きがかかり、しかも色んな人のから二次創作が生まれてくると、自分の中で勝手に「ヒカリらしさ」「カスミらしさ」「ハルカらしさ」「タカシらしさ」「サトルらしさ」が生まれてくる。
キャラクターの色んな側面が見えてくるような気がするからだ。
まさに色んな人から話を聞いて、「きみ子らしさ」「よし子らしさ」「一郎らしさ」「サブローらしさ」「武らしさ」が生まれてくるリアルの噂話と同じである。

 

 

よくできた作品というのは、たとえSFであったとしても、どこかに本当に存在する世界のように感じられる。
作者というのは話をする人であり、異世界の様子を伝えてくれる巫女とかそんな存在のように思える。
だからこそ、「公式」という伝聞役が言ってるだけで、「本当」は別の側面があるはずだと信じて疑えなくなる。

つくりものではないように思えてしまう。それが作者の腕の見せ所だろう。


たぶんなにかしらの作品のファンになった人はこの気持ちがあっただろう。
優れた作品を作る人というのはそういう役割を認識しないとなかなか長く愛される作品にはならないのかもしれない。

オタクというのはおそろしいのだから。

 

公式が勝手に言ってるだけやん。

 

その世界が本当にあり、それは語る人によって違うやんという。