ホウチガブログ

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〈1270.ホラーの現実性バランス〉

3月20日

 

一昔前のホラーゲームで「SIREN」という作品がある。
題名の通り、村に鳴り響くサイレンが作品の肝になる。そんなサイレンが鳴り響く村、2では島をめぐって、脱出や解決に向けてキャラクターを操作する。
いわゆるゾンビものの話のように、動く死体や変形してしまった元人間が敵として襲ってくる。落ちているものや設定が、かなり現実的である一方で、そんな非現実的な存在が跋扈している。
完全な異世界ではあるけども、どこかで起こりうるんじゃないかという不思議な感覚がある。

 

同じようなホラーゲームとして「MAN OF MEDAN」がある。5人の若者が小舟に乗って遊んでいると、海賊に襲われてしまう。宝物が隠されているという大型貨物船に辿り着き、そこで海賊に奪われた小舟のエンジンを取り戻しながら逃げる、同時に襲ってくる幽霊・ゾンビから逃げるという話である。
ネタバレになってしまうかもしれないので迂遠な説明になるが、その幽霊やゾンビというのは非常に現実的な落ちに落ち着く。

 

SIREN」が現実的なフィクションだとすると、「MAN OF MEDAN(MOM)」はフィクション的な現実、みたいな違いがあると思う。

 

 

ゲームをやっていてオチについて思うのは、現実離れしていてほしいというものだ。
これを同じ話でオチが現実的だと、映画になると思う。

 

SIRENはオチがめちゃくちゃ非現実的である。人間が地上を支配する前に支配していた存在だったり、冥界のようなものだったり、現実的だったものが急に非現実な展開になる。これが最初から非現実な展開だったらB級ゲームになるだろうが、現実的な話があるので「本怖」みたいに興味をそそられる。


MOMも最初は現実的で途中から非現実になる。ここまでSIRENと同じだが、オチで急に現実に引き戻される。これが映画であれば納得感があって良かったんだけど、ゲームとなると急に冷めた感じになってしまう。ただ、この展開がよかったという人もいるだろう。おそらくRPGというより映画のように楽しんでいたらそうなると思う。

 

エンタメ小説と文学の違いに近しいだろう。
文学的な物語の中で、急にゾンビが出てきてしまったら期待違いだろうし、エンタメ小説で哲学的な話が続いてしまうと飽きる。
つまり、話の展開の良し悪しは、読み始める前の期待の時点で決まっているということだ。

 

 

芦田愛菜ちゃんの有名な言葉で、人を信じるという言葉の意味を分析しているものがある。
「自分が理想とするその人の人物像に期待しているということ。裏切られたというのは、見えていなかったものが見えただけ。人を信じられるというのは、そういう見えない部分が見えた時にもその人であると受け入れられる自分がいる、ということ」

 

なるほど、人はなにか対象を見るときに既に自分の中での期待する像があるようだ。
その対象が人である場合はもちろん、作品や風景にだってそうだろう。
自らが抱く「こうあってほしい」に対して、別方向であればがっかりするし、それをさらに超えてくれば高揚する。

 

 

ホラーを見るとき、現実的な怖さと非現実的な怖さを混合させる時には注意したほうがよさそうだ。


広報が現実的な恐怖を前面に押し出しているのに、作中では非現実的な展開が中心になってしまうとがっかり感が出てしまう。それは期待値に対して現実がまったく違うものだからだ。
それをうまいこと調整できれば、現実的な恐怖と非現実的な恐怖が共存できると思われる。

 

ただし、ゲームをしている時点である程度非現実的な展開を楽しむ期待があるだろう。
現実的すぎても萎える。しかし、非現実的すぎても作者のご都合主義だとして冷める。

その微妙なバランス感覚が大事なんですね。