ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1272.間違っていたのかしら〉

3月22日。

 

大学生の頃、親と進路について話す機会があった。かつてより僕は国際協力に進みたいと思っていたが、大学生になってイキりだしてからは拍車がかかった。"俺が人を救うんだ、困ってる人を助けるんだ"なんて。自尊心のために誰かを使おうとしていた時期だったのに。

 

それを見透かされていたのだろう。親はそういう進路に反対だった。

そんな時にこんな質問をされた。

「もし海外で問題に当たっている時に、日本の家族に問題が発生したらどうするのか」

僕は勇んで答えた。「一人でも多く助けるという事に、そこは問題じゃない。」

今思えばめちゃめちゃイキッている。恥ずかしくて仕方ない。この答えを親は怒ったわけだけど、どうもその怒りはどうも納得がいっていない。

 

前置きが長くなってしまったが、そういう話。

 

 

発生より1ヶ月が経過した戦争問題とちょっと重なる部分があるように思える。

最近は降伏すべきだという意見をメディアでも見るようになったし、友人と話してもそう言う人もいる。

 

わからなくもない。戦争を続ければますます被害は大きくなり、いまよりさらに悲しみが大きくなる。ならばいまのうちにそれを止めるべきだということだろう。

だが、そういう仮定ができるのだとしても、今も銃声がなる現地で、己を奮い立たせて立ち向かっている人がいる。その人たちを簡単に否定するのは横暴すぎる。

我々はまだ平和にくだらない話をする余裕がある。でも実際に大切な人が急に殺されてしまったら、殺される可能性があるとしたら。降伏するのが正解となるだろうか。

 

 

急に規模は小さくなって、僕の話に戻す。

僕が見えていた世界は小さかったし、変な正義のもと大風呂敷だけを広げていたことを否定したのなら、それは大正解である。

ただ、親に否定されたのはそこではない。日本と海外とを秤にかけることは違うぞと主張したことを否定された。

 

戦争の話と被るというのは、現場の意見・行動を、自分の価値観のもと判断しているのは横暴だということだ。

先日引用した芦田愛菜ちゃんの、人を信じることは自分の理想通りであることを期待することではなく、ありのままを受け入れるという話がある。

 

対象が、自分の考えた通りでないのを否定するのは幼稚園で終わりにしたい。

自分の考えた意見が最上ではなくて、どれだけその現場にいる人に寄り添えるのかが大問題になる。

 

結果として、人助けをしようという僕も、現地の人に寄り添っていなかったことを後で知ることにはなる。

 

 

「ぼくが考えたさいきょうの〇〇」というのはネタとして使うけども、結構頻発しているから気をつけたい。

あくまで現場・現地の人がなにを考えているのかを知ることから政策は有効になると教わりました。

 

自分の理想で相手を判断せずに、相手のありのままを一度受け入れる余裕が欲しいですねという話。

 

イキッている息子・娘に言い聞かせるにはどうしたらいいんだろうね。現場にぶち込んで無力であるという現実を肌で知ることが一番じゃないですかね。なに言われても聞かないのがイキッている時期ですし。