3月31日。
学生最後の日だ。
明日から決意新たに、と言いたいところだが。これまでの進学の前日ほど、高揚感はない。
それよりも不安のほうがある。勉学と比べ、他人との関係性が大きい事柄に向かうからだろうか。
専門家じゃないという不安。
なんだ、大学院進学を決めた時とまったく同じじゃないか。
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「専門家」がなにを指しているのかというと、ある対象の学問や事象に対して自信をもって分析が可能だということである。
例えば、「京都の平安時代」という話であれば、文学部であればその時代の作品から時代背景をつらつらと述べ、政治学者であれば当時の内裏の状況をつまびらかに解説し、社会学者は当時の慣習や生活を原典を示しながら語る。
いやしかし、こんな例示をしておきながら思うのは、それがすぐにできるわけもない。
大学院の研究2年間でセネガルの観光地ひとつのことを勉強して、ようやくそれが多少できるようになったけども。セネガル全土では当然無理だ。
それができるためには、これまでの倍以上の読書量が必要だ。
ということは、「専門家ではない不安」というのは、身の程知らずな不安だということになる。
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冷静に考えてみると、僕が専門家だと思う人はことごとくおじさん・おばさんである。
学部の先生、大学院の先輩、大学院の先生。
僕は学部でもアフリカの専門の勉強をしたわけではないし、大学院に入ってはじめたばかりだ。
変な話、テニスだったらそれなりの知識があると自負がある。テニスは小学生の時に始めて以来15年が経った。それでも僕より詳しい人はいる。それでも知識はあるほうだ。
つまり、ひとつの物事・概念に対して10年とか打ち込んで、あるいはそれなりの結果を出して、専門家のような領域に達すると思われる。
そりゃあ、専門家じゃなくて当然だ。
専門学校卒業の人たちと肩を並べるのはビビるけども、彼らもまた僕と大して変わらないはずだ。
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じゃあ、新入社員として取るべき姿というのは自明だ。
とにかく知識に、スキルに貪欲になることだ。
単純な競争ではなく、将来的に大きく成長するためには、蹴落とすとかより、吸収し続けることである。
それこそ、専門家がいくらでもいるのが職場である。とにかく無知であることをむしろひけらかし、吸収しつづけることだ。
それこそ、専門家ではないので恥じるべきことはなにもない。
そう考えると、高揚感に溢れてくる。色んな知識を得て、専門家になれるんだもの。
ようやくだ。