ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1293.反論と吸収〉

4月12日。


どんな文章を書くにしても、最終ゴールは読み手が納得することだろう。
物語であっても、不可解な物語は楽しくないし、たぶん書き手も楽しくない。例外はたくさんありそうだけど。
でも結局はだれかと情熱を共有したり、楽しい・面白いことを伝えたいから筆を取るのだ。
納得のさせ方というのは色んな手段がある。
しかし、結構大事なのは反論の有無であると思われる。



「僕はたまねぎが好きだ。
炒めれば甘くなり、血液もサラサラになる。
毎日食べれば健康になるし、おいしいので幸せになる。
みんなもたまねぎを食べましょう。」


食べない。お前はそうだろうけど、僕はそう思わない。まったくもって納得いかない。
意見文というのは自分の意見の押し付けではあるかもしれないが、押し付けるための方法は実行すべきである。


「僕はたまねぎが好きだ。
炒めれば甘くなり、血液もサラサラになる。
毎日食べれば健康になるし、おいしいので幸せになる。
『しかし、読者の中には嫌いな人もいるだろう。
確かに生だと辛いし、涙も出てくる。健康になる食材は他にもあるもの、わざわざ使わなくてもいいじゃないかという意見もよくわかる』
【そんな人にこそ、新たまねぎを食べてほしい。普通のたまねぎより柔らかく、辛みのあまりない。それをカレーライスに入れてみると自然なあまさがプラスされて何杯でも食べたくなる。】
みんなもたまねぎを食べましょう。」


まあ一回くらいなら食べるかもしれない。
この『』が反論である。【】は反論吸収と言われたりする。



これがあるだけでも、読み手の共感は得やすくなる。結局納得するかどうかは、その意見にどれだけ心が近づいた、思考回路が同じになったのかということだ。
まったく顔も知らない人間の文章を読む上では、基本的に疑いから入るのが人間だろう。
だからこそ、意見に対して予想される反論を自ら用意しておくことで、なんか同じ思考回路をする人=もしかしたら友人?に近づける。


今読んでいるビジネス書には、一切反論がない。
自分の主張に一切の間違いがないという自信の表れなのかもしれない。
しかし、読んでいて非常につまらない。筆者の自己満足で、僕の存在はどうでもいいように思われていると感じるのだ。
いやまあ、筆者からしたら一読者の存在なんか気に留めないのだろうが。読み進めるうちにこう思えてくるのだ。
「きっとそうなんだろうな、お前の中ではな。」
ということで、読み進めるのが苦痛で仕方ない。



もし意見文を書くことがあれば、ぜひとも「反論」と「反論吸収」は入れてほしい。
入れすぎるとそれはそれで自信がない奴だと思えてくるけどね。あたしがまさにそうかもね。