ホウチガブログ

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〈1294.例のビンタについて〉

4月13日。

 

先日の某海外俳優のビンタ事件について。だいち・岡島と会って話をする機会があった。
僕の正解としては「ネタの説明をさせて会場を凍らせる」という話があったが、岡島としては違うんじゃないかという話だった。
アメリカでのテレビはショーとしての意味合いが強いので、興覚めなことをしてはいけない」という意見だ。なるほど、ショーを見ている身としては、急に真面目な話題を持ち出されても困る。ミュージカルを観に行ったら、急に演者同士で喧嘩を始めるようなもんだ。
どんな行動を取ればよかったんだろうか。



岡島の解答としては閉会後に謝罪を求めるとのことだった。
「君のジョークはジョークとしては良いが、私と私の家族は傷ついた。直接謝罪してほしい」
裏でそう話をすることが最善だったのではないか。
なるほど、ショーとしての側面は維持でき、きちんともやもやをなくした上で帰路につくことができる。


それを聞いて、だいちが自身の過去の話を切り出した。
「俺が小学校のころ、家族関連のことで体育館規模でくすくすと笑われたことがあった。そんなときに俺はまわりをにらみつけることしかできなかった。そういう意味ではあの大衆のまでビンタをできるというのはとんでもない勇気だったはず。
ある意味、家族を守る家庭の側面があの場面で出てきたんだろうな。
逆にあそこでビンタせずに、あの場面で笑って過ごしていたら、家に帰れない気がする。」


ああ。なるほど。家での彼を想像してみたわけだ。
「お父さん、お母さんが笑いものにされていたのになんで怒らなかったの?」
後で裏で謝罪を受けたとしても、一度は受け入れたという事実は残る。ショーマンとしては正解かもしれないが、子供のみじめな気持ちは消えないだろう。


僕自身、その話を聞いて思っていたことがある。
あそこで彼が受け入れる行動を取るということは、外見で笑いを取ることが社会的に容認されることになる。その拒否の一歩を築いたことになるんじゃないか。
あそこで受けれていたら、同じ症状で苦しんでいる人が同じ笑いものにされる。なかにはそれを受け入れる人もいるかもしれないが、苦しむ人がいるだろう。



しかし、暴力はだめだっただろう。日本のコメディアンであれば、どついて「なにいっとんねん!」という流れがあるものの。
となると、やはり言語を用いた糾弾が必要だったのかもしれない。


だいちが一つ案を出した。
「映画の人物になぞらえたネタだったわけだから、それを肯定する例をあげればよかったんじゃないか。その人物の美しかった点とか、映画としての良い場面での在り方とか。」
ショーとしての形は残しつつ、ウィットに富んだ話題で話を展開できる。自分と家族が直面している問題を肯定できる。
一番美しい返しだったかもしれない。



そもそも、ああいうジョークがなければよかっただけだが。
なんで馬鹿にされて怒って反撃した側だけが糾弾されなければならないのだろうか。
喧嘩両成敗というのは日本だけの考え方なのかしら。双方に問題があっただろうに。