ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1295.認知を楽するな〉

4月14日。


以前ハラミキに「十文字は白黒はっきりさせたい人」と言われたことがある。
そんな自分に気づいていなかったが、言われてみればそうかもしれない。問題の争点を明確にして、悪者と正義を線引きしたい性格をしている。


飲み会での一件でそれを痛感した。
新人だけの飲み会で、机ごとに特徴があるように見えた。それを用いて、「僕がいる机は陰キャテーブル、あっちはより深い深淵族のテーブル」とネタにした。
そんなわけがない。僕のテーブルにだって深淵族はいるだろうし、あっちのテーブルに陰キャもいただろう。
もっと言えば、人間のなにをとって陰で、なにをとって深淵なのか。そんなの人の認知次第である。


今になって、そのネタは良くなかったと後悔している。



この、認知を楽にするためのラベリングは当然問題になる。古くは肌の色の人種差別があるわけだし、魔女裁判だってその一つかもしれない。日本なら同和問題がある。
自己と他者を明確にして、仲間と敵と明確にしてしまう。


なぜラベリングするのかといえば、認知を楽にするためにほかならない。
この人は味方だから大丈夫、この人は敵だから油断ならない、そういう楽さを手に入れたいから線を引きたいと思ってしまう。
種としての人間に興味があるうえでは決定的な欠陥だろう。個々の特性を見ようとしないんだもの。


そういえば同じ注意を大学院でされた気がする。
「十文字はそれっぽい箱を用意して、誰々は○○グループみたいな認識をしているけど、的外れやで」
言い訳をしてしまうと、社会学文化人類学の敵対と同じである。
社会の構造を見ようとするたびに個々は大きな大衆として括る。一方で一つの地域の人々、その中の特定の個人を観察しようとすれば大きな文脈からはズレてしまう。


そう考えると、大きなラベリングでものを見るのは社会学を学んできた人間としては仕方ないのかもしれない。
いや、だめだ。そんなの友達にいたらきもいぞ。



よく考えてみろ。
友人Aが飯を食うときに箸を使えば「極東文化」とレッテルを貼り、ラッパーのライブにいけば「ヒッピー文化」とレッテルを貼り、研究室で本を読めば「アカデミック主義者」と言われる。
確かにそのどれでもあるけれど、そのどれでもない。それが「私=A」である。
その「レッテル信者=B」はAという個人を見ているようで、実のところその背景にある社会だけを見ている。Aとしては、個々の繋がりとしての会話を求めているのに、そこではなく文化的な興味から話をされているような。そんな気分になるだろう。


極端な例ではあるけれど、これに近しい事態を引き起こしているのが僕だ。
人を見るときに、どんな家庭で育ったらこういう人になるんだろうとか、そういうことを考えてしまう癖が出ている。
根本的な興味としてそこにあるのは今更どうしようもないけれど、せめて会話をしているときは声に出さないほうが良いだろう。



僕自身、他人からの目を気にするときには同じ思考回路になる。
この服を着たら○○な人と思われるだろう。この本を読んだら○○属だと思われるだろう。
ひとくくりにして理解しようとすると、重要なところを見落とすぞ。理解した気になって、まったく理解できていない。
そんな悲しい人間になるのは遠慮願いたい。ならばレッテルは置いといて、目を見て話をするようにしよう。