4月23日。
昨日の「ハイコンテクスト文化」という言葉は、文化人類学の分野で出てきた。
大学院の先輩と久しぶりにあった時に、先輩がその言葉を言っていたので思い出した。
こういう用語を、大学・大学院で永遠に学んできたはずだが、パッと出てこない。用語が指し示すような状況に出会ったときに、「そういやそういう話をどこかで聞いたことがあるはずだぞ」と思うが、まったく用語は出てこない。ほぼ全ての用語がそれである。
記憶力の問題かもしれないが、根本的に理解できていないか、興味がない状態で出会ったからだろう。
勉強法の話。
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高校数学・物理がとにかく苦手だった。
僕の勉強方法が完全にロードローラーみたいな感じであり、ひたすら問題を解いて丸暗記する、というものだった。それが国語・社会系の問題であれば勝てる。基本的に記憶すれば点数をもらえるから。
しかし、数学や物理はちがう。公式を覚えても、その公式を答える問題が出てくるわけがないから。
その公式を用いて、今回の問題はどうこたえるのだろう、という記憶したものを道具として使うのが答え方だから。
つまり「覚えたものをどう使うのか」、ここまでが勉強であるが、それが苦手だった。
用語もそうだ。「ハイコンテクスト文化」という言葉が指し示すものがなんなのかを覚えようとはするけれど、じゃあ現実だとこういう場面がそれに当てはまりますね、という理解まではできない。そのまま勉強を終えてしまう。
「知っている」「できる」はまったくの別物である。その一個一個の単語を覚えても、解説できないようなものだ。
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おそらくこの「記憶だけ症候群」な人は一定数いると思う。
小学校で高得点を取るためには暗記が一番だから。問題集をまるまる覚えれば、テストで百点取ることは容易であろう。まさにそのタイプだ。ひたすら体当たりで覚えた人間である。
そういう人間は日常生活での記憶が非常に苦手であろう。「記憶モード」と「実用モード」がまったくの別領域にあるから。
そういう不器用な人間は、常に具体例を考えるといいだろう。なにか記憶するべき対象と出会ったら、それが誰を示しているのか、どんな状況のことなのか、どんなタイミングで発生するのか、など。
とにかく、文字ではなく映像にできるまで繰り返すことだ。
それで、文字を見て、映像が出てくるようになれば「知っている」から「できる」に移行できたと思われる。
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よく、覚えたことを説明してしましょうという教育方法がある。
僕はそれが圧倒的に苦手だ。自分の中で消化して解釈するのに時間がかかる。
だからこそ、こうやって文字起こしするのが最善だと自覚し始めたのだろう。
記憶できないことに嘆く同志よ、映像化して説明できるようになろう!