ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1306.バンズかパティか〉

4月25日。

 

僕は弁当が目の前にあると野菜から食べる。好きなものは後に残して、そうでもないものから食べることになっている。
うまいものは最後にとっておくに限る。肉にせよ魚にせよ、最後に食うと幸せが最後にあるので、途中を食べるのも楽しいような気がするし、なにより食後の幸福感がでかい。


マクドナルドのバーガーを食べるときも若干そういうのがある。
途中で中身のパティが出てきそうな時には、それをバーガーに押し戻し、バンズをやたらめったらに食べようとする。
しかしだ。今日は違った。パティがやたら主張してきたので、先に食べてやった。
そしたらどうだ。めちゃくちゃいい気分じゃないか。うめえ。



楽しみは最後にとっておくというのは、なにか良いことのように思えていた。
食事に限らず、楽しみが最後にあるというのは、その道中を楽しむ方法だと信じていたし、なにか道徳的な感覚を持ったいた。
ところがどうだ。先に幸せを味わってみた気分は。食事に関していえば、まったくそのあと不幸にはならなかったし、それはそれで別の幸福を求めて、キャベツうまいやんと気づくことになる。
最後だけ見ていると、道中が経過として流されてしまう。なるほどそれは気づかなかった。


幸福というのは、手に入れるものではなく、既にあって見つけることであり、無からではなく有から作り出すものなのかもしれない。



先輩が紹介してくれた物語。
ある星に衝突しようとする彗星の前で「老いていくことは悲しいこと、じゃあ生まれた時が一番良いことで、あとはがっかりすることしかないの?」と問うた少年。
「そうだ。だから次に生まれるモノを残すんだ」と答え、自己犠牲の末に星を救った魔法使い。
そのことを別の人に話すと、その人は「だから生み出したいんじゃないか」と話したらしい。


老いていえば、自分の体力の低下も感じるし、記憶力も悪くなる。人間のピークは20代というけども、それ以降は自分の存在に価値はなくなっていくだろう。周りにいる人は死に、孤独を感じることがあるかもしれない。
自分自身のなにに価値があるかと言われれば、その体に宿る経験であり、それを整理している脳みそだろう。だからそれを使って、なにかを生み出したり、次のなにかが生み出るようにシステムを整理したり教育したりする。
そういうのは既に身の回りにあることであり、それを再発見するにあるんじゃないか


なんだか色んな事が納得行った。



僕がなにかを生み出したいと思って、話を書いたり、感情を文字にしようとするのは、親友が死んだことが始まりだった。
その試みが成功したことは一度もないが、そういう行為に移すことで自分を受け入れられるような気がしている。
創造するときの動機はひとそれぞれだろうし、崇高な目的がある人もいれば、俗っぽくてくだらないスタートの人だっている。
しかしながらそのすべての共通項として、生み出すことで自分自身が幸せになることがあるはずだ。
ゼロから作り出すわけではなく、自分のうれしかった経験とか感動した経験とかがポタポタと絞り出てきたものが源泉である。


うまく言葉にしきれていないけれど、幸せっていうのは、たぶんもう自分の中にあったりすぐ近くにあるものだろう。
なにか生み出したいときの動機は自分自身が幸せになりたい、肯定したい、という純粋で切なる願いであろう。


あふれ出てきたパティを見て、こいつを食いたいという衝動に駆られたのは、それで幸福になりたいという根源的な欲望があるからだった。
そして僕は僕の中の新しい食事順を生み出してしまった。
そしてそいつを食った後の残りカスみたいなバンズとかでさえも、なんかソースがしみててうまいやないか、と発見があった。


早朝のマクドナルドでそんな出会いがあった。
内側に気づくためには、外に出ましょうという話。