ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1339.なにかに熱中すること〉

5月28日。


仕事が始まって、ようやく大学の経験が直接的に役にたった瞬間があった。
大学では英語サークルに入っていて、そこで岡島だいちと出会うわけだが、英語能力やスピーチ力、文章作成が生きた経験がなかった。
スピーチでは8分間の英語の文章を暗記するわけだが、そこに強弱をつけたり言語表現・ワードチョイスに気を付けたり、時間配分をなんども調整した。
スピーチをすることなんて日常生活ではないわけで、仕事がはじまってもそんな機会はなかった。


それが役に立つ場面と言ったら、プレゼンである。これには非常に役立った。



大学での学びに限らず、努力したことが報われる場というのは結構あとになってふとした瞬間に気づくものなのかもしれない。
努力したものは、自分にとっては当たり前のものであるため、それに熱中している間はその特異性に気が付かないものである。
その努力する場を一回離れ、別の場に熱中し始めた時に、その時の成長が効いてくるようだ。


プレゼンという場が用意されたからこそ、スピーチ制作・発表の経験が活きてきた。他に活かせばなんてほとんどないぞ。
それでも「芸は身を助く」というようなことがある。


例えばテニスもそうだ。
試合に負けた時ほど成長できるという話がある。負けた時は悔しい。負けという事実を受け止めきれないというのもあるが、技術的・メンタル的に追いついていなかったからこそ負ける。
その相手との格差に身が震えるほど悔しく感じる。
だからこそ、その時は「ゴールデンタイム」だと教えられた。
練習に集中するのはもちろん、そこで意識的に自分の長所・短所と向き合わざるを得ない。だからこそ、その後の成長のために必要な気づきが最も得られる瞬間なのだ。


ただ、「負け」という経験が日常であるわけではない。
しかし、いつかそういう日は必ず来る。その時のための財産である。
つまり、人生で無駄そうなことは、いつかの自分を助けるなにかであるようだ。



もちろん、これは「効率的に生きる」ということを否定する話ではない。
目の前のタスクや将来像を明らかにしたうえで、それを突破・実現するために最短ルートを歩むのはまったく悪ではないし、むしろ奨励されるべきことである。
しかし、その明らかにした将来像がいつか変更されたときにも、それまでの経験を無駄だったとゴミ箱に捨てるべきではないという話である。


僕自身、かつては国連職員を目指しており、そのために大学院進学は必須だったわけで。
ただ、その夢を変更するに至って、大学院の経験が無駄にはなってないし、否定するべきではない。
否定をし始めると、その物事について思考を停止することになる。深堀できないというのは本当にもったいないことだ。


夢・目標のための最短ルートを分析しつつ、常にその夢・目標の解像度をあげて、場合によっては修正を続ける経験が必要なのだ。



なんのために学ぶのか、という問いは常に考えている。
小学生に問われた時と、社会人に問われた時でまったく別の回答になると思われる。


小学生に問われたならば、面白いと思える分野を広げることにあると答えるだろう。
社会人に問われたならば、楽しいからかしらと問い返すかな。


目の前の成果を出すために学ぶのは当然であって、でもその先の何かに対する投資でもあるとも思うわけで。
それはつまり人間としての引き出しの多さ、文化的財産を多くしておくことにあると思う。
でももっと単純に、そういう財産をため込むのって楽しいじゃない。


今回は目に見える成果として、これまでの謎の経験が活きてきたわけだけど、そうじゃない経験もどこかで僕を支えていると思うと楽しい。
だからこれからもなにかに熱中していたいと思うわけです。