5月29日。
プロフェッショナルというのは迷いがない存在だと思っている。
すべての現象に対する回答を用意できていて、問われたらすぐにこうするべきだと道を示せるような。そういう存在だと思う。
言い換えてしまえば、すべての事象に対するマニュアル化ができているような、そういう引き出しの多さと深さにあると思う。
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例えば本田圭佑さんに試合中のこんな場面はどうしたらいいですか、と問えば100%回答が返ってくるだろうし、チームマネジメントについての概念的な問いに対してもきちんと彼なりの哲学に沿った回答が返ってくるだろう。
大学の教授に専門領域の話をすれば、重箱の隅をつつくような問いでもなにかしら返ってくる。ちがう専門領域の話をしても、自分の領域と比較したうえでの造詣の深い話を聞くことができる。
プロというのはそういう人の在り方であり、態度のことだろう。
例えばそこで、私はマネジメントの専門ではありませんよとか、そんな国の話をされてもわかりません、なんて答えるのはアマチュアだと思う。
プロとしての「選手」「監督」「教授」として取るべき態度がわかっている。だからこそ、なにか問われるということは、一種試されている場である。そこをきちんと堂々と潜り抜けてこそのプロであろう。
いや、潜り抜けるというのは失礼だった。すでに潜り抜けているから、用意済みであろう。
私自身がそのプロになりたいとは思っていなくても、そういう態度が取れるプロでありたいとは思うので非常に参考になる。
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最近は、そういうプロがプロらしくない側面を見るのが面白い傾向もあると思う。
TwitterとかインスタみたいなSNSのおかげで、カリスマのカリスマではない一面を見ることができるようになっている。
しかし、それが映えるのは、きちんとカリスマである瞬間があるからこそだ。
カリスマがない一面しかなかったら、それはもうただのおっさん・おばさんである。
プロというのは一種のカリスマである。
テニス選手ロジャー・フェデラーはキングであり、キングでない側面を見た時の親近感がとてもうれしかったりする。
ただ、それはキングだからこそのギャップが必要である。きちんとやるときは120%でやっているからこそだ。
負けてもフェデラーはキングである。結果がどうではなくて、その人の在り方がプロかどうかというところである。
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大学時代の先生で、生徒が誇りをもっていないことを嘆いていた人がいる。
人前でだらだらしたり、見られ方を気にしないような。
生徒だから気にしなくて良いじゃないかとかではなくて、人間としての誇りを取り戻してほしいというような話だった気がする。
それは母校愛の有無にも関わるだろう。「○○生」という誇りがなければ別にどうでも良いと思うだろう。
誇りとかプライドというのは、そういうカリスマ・プロの源泉だと思う。
それが所属先にある人もいるだろうし、自分個人にある人もいると思う。
そういう「在り方」をきちんと整えられる人間でありたいとつくづく思うわけです。