ホウチガブログ

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〈1350.趣味とは〉

6月8日。

仕事が趣味だという人は危険だという話がある。
仕事でうまくいかなくなった時にメンタルが折れる、老後に趣味がなくなる、オンオフの切り替えができないなど。
まあ納得はいくけれど、そんなに危険なのかわからない。リスクマネジメントという意味で複数のエリアに生きる場を用意できるというのは強いのだろうけども。



例えば営業職の人間が、会社の休日にも営業用の資料を作ったりするような話である。
営業成績が伸びなくなった時にしんどくなるのもまあ想像できる。いつも仕事をしているのに成果がでないというのはストレスであろう。


しかし、それが「楽しい」のであれば仕方ないだろう。ストレスを感じたならば、必要以上に働くことはなくなるだろう。だって勤務外労働を強いられていないという前提で、仕事が趣味になっているんだもの。
つまり、そのストレスすら楽しいと感じるような人間が、業務外での労働を楽しいと感じているのだ。


よくいうのは、仕事が最高のゲームだと感じるという話である。
営業成績があがると気持ちよいけれど、あがらない状況をあげさせるのは一種のシミュレーションゲームである。そこに楽しさを見出せば、例えばパチンコ・スロットする時間、スポーツに興じる時間をすべて仕事に費やす。だって、娯楽よりスポーツより、仕事の方が楽しいんだもの。



そこまでの変人はなかなかいない。そうでない「強いられている人」は趣味を持つべきだろう。
ブラック企業に勤めていて、仕事がそもそも楽しくない人であれば趣味を別に用意して、そっちのフィールドで楽しさが担保されていれば、人生捨てたものじゃないと思える。


変人だとしても、そうではないにしても、老後どう生きるかは考えておいたほうが良いかもしれない。
変人は仕事を取り上げられたら燃え尽きた炭みたいにただの邪魔でしかないなにかになってしまう。仕事を強いられていたブラック企業労働者も心の均衡を保つことができずにどうしたらいいかわからないことになるかもしれない。
植物を育てるとかでもいいし、絵を書く・写真を撮るでもいいかもしれない。もしかすると歌を歌うとか、楽器を演奏する、かもしれない。「自己表現方法」を持っておくべきだ。


自己表現というのは、自分がいれば成立する。他者に依存せずに済む。こんなにいいことはない。
情報に対して受け身なこと、旅行・観劇などなど。悪くはないが、他者が情報を出してこない限りは退屈な人生になってしまう。



趣味というのは、自分の楽しみのことである。
ただ、それは外部に発信するなにかであると良いだろう。それはスポーツという体を用いた自己表現かもしれないし、絵や音楽という芸術による表現かもしれない。言葉を用いた表現かもしれない。
とにかく、読書・観劇など、内から溢れるなにかを外に生み出すことではない趣味というのは、危険な匂いがしなくもない。悪いとは言わないけれど。
せっかくなら、自分も発信して、友達でもだれでも返事が返ってきたらうれしいじゃないか。