ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1362.先輩を見る目〉

6月20日


会社の先輩と話をする機会をつくってもらった。
ビッグマウス前提の話になるが、先輩も人間であり、弱点もあるわけだ。小中学生の時と比べると、妄信的に先輩を信じる癖がなくなった。これは良かったと思うと同時にちょっとさみしくも思えてくる。
信じるものがあるというのは楽だからね。



例えば中学の3年生の先輩に憧れていたとしよう。
部活で成果を出しており、でも朝練をしてなければ朝練が全てだとは思わなくなるだろう。それで高専に進学することを希望し、ロボットいじりが趣味であれば、自分もそれがよさそうだと思うだろう。
選択肢を先輩が選んでくれるし、取るべき行動の模範を示してくれる。
妄信するというのはこれである。


そうすると、その先輩と親しくなりたいと思うだろうし、日常の生活様式も踏襲しようとするだろう。これは楽しいし、楽だし、良い・悪いの判断も楽である。
だから、その先輩のアドバイスはある意味鵜呑みできる。言うとおりにすればその先輩になることはできる。


それをしなくなるというのは、自分自身が成長したということでもあるだろう。先輩ですら影ってみえるくらいに理想が高いということかもしれない。
先輩のアドバイスも、常に正しいとは思えなくなる。というのも、先輩が言っているところと、自分が目指すところにずれがあるわけだ。アドバイス従えば先輩の年齢のころには先輩レベルになるかもしれないが、そこではない。むしろ、先輩すら自分のライバルであるとも思えてくると、したがってなるものかと思うときすらある。



じゃあ全てを自分で情報をあつめ、取捨選択することになるわけだが、これは結構大変である。
曖昧な目標・夢を掲げており、リアルな人間のような具体的な規範がないので情報の取捨選択が非常に難しい。
自分が信じるものがあやふやだと、選択する軸もあやふやである。
つまり、先輩かどうかはおいといて、生きる上で目指す姿というのは具体的であればあるほどいいのだろう。


前も書いた気がするが、○○さんだったらどんな選択をするか、と思考するのは非常に合理的・建設的であることが多いらしいね。
それが具体的な先輩であれば、山田先輩であればどうするか、と考えられるので取るべき行動の規範がわかりやすいのだ。



先輩ですら自分と同じような矮小な存在であり、目指すべきものはもっと先だというのは悪いものではないだろう。
しかし、それによって生じる難しさは非常に苦しいものであるようだ。
先輩が示してくれる選択肢を選択するだけでは、自分の理想には辿り着かないということだからね。


イマジナリー先輩を作り出して、そいつに選択させるような、そういうもう一人の自分を飼うことが大事になるのかもしれない。