ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1406.未来は明るいか〉

3月31日。

 

毎年この時期は年越しだと思う。
身分が変わったり、環境が変わったりで目まぐるしい。

12月の年越しはそういう節目だとだけでいまいち心境の変化はないように思う。3月31日から4月1日になるとその瞬間に身分が変わる。社会的な存在として変化がある。

ただ、今年の3月31日は、いつになくさみしく感じるものだった。
はじめて、推しが終わる瞬間を感じることになった。Vtuberミライアカリちゃんの引退だった。

 

 

最初の動画は2017年にあがっているようだ。
僕は大学3年で、インターンで削られる日々だった。サークルの運営をやっていて楽しかったけど疲れる日々だった。
家に帰って、パソコンやスマホニコニコ動画を見ながら冷たい総菜と米を飲み込み、嫌々眠る日々だった。
そこで見たのが初期も初期のVtuberだった。
キズナアイさんの動画を見たりしているうちに、ミライアカリちゃんの動画が出てきたんだと思う。

 

めちゃめちゃどっぷり浸かっていたわけではないけれど、ふと動画を見てはかわいい姉ちゃんがアホやってんなあと救われるものだった。

なかでも「ECHO」というボカロ曲を彼女が歌っている動画はよく聞いていた。
好きな曲を好きな人が歌っているのは良い気分転換だった。院試とか論文とか就活とか、そういう厳しい時期によく聞いたものだ。

 

説明は難しいけれど、地元にある、ときどき遊びに行った駄菓子屋とか遊び場が閉店するような、そういうさみしさがある。

 

 

大きな会社がバックについてから、活動の自由を制限され、結局落としどころがなく引退という選択肢になったらしい。
それは仕方のないことでもあろう。大きな会社というのはそれだけ影響力があるわけだし、発信力のある一部が自由にしすぎたせいで、全体が崩壊する危険性も孕んでいる。


Vtuberという文化とマルチな手広い会社という組織はそもそも適合しないものだったのだろう。

それだけに、さみしさがある反面、これから起きるかもしれない「落ち目」を事前に察して引退したのかもしれないという納得をすることにした。


初期のころのように個人でやっていたらそれが正解かと言われればそうとも言えないのだろう。


 

文化というのは難しすぎる。
個人や集団が意図的に作り出せるものではないし、なにより運営し続けたり経済力を大きくしようとすればするほど破壊への道が待っているものである。


そもそも文化を作りだそうとする時点で間違っているのだろう。大衆が受け入れて、勝手に生活に溶け込んだ先で始めて文化としてどんどん変容していくものなんだろう。

「○○祭り」というのが100年前に始まったとしても、まったくそのまま100年続いているわけではあるまい。勝手に受け入れられた部分のみが残され、不要とされたものは引き継がれなかった。
そもそも祭りに主体はいない。神自らが崇めろ!という祭りがあれば、たぶん長続きしないんだろう。


概念に対して、集団が賛同し共鳴することで文化が生まれるように思う。

大企業は確かにブランドを落とさないためにも発信する情報を拘束する必要はあるけれど、それだと個人は犠牲になるよなあ。


 

今日、同じチームから外れた先輩に対して、上司が発した言葉がよかった。
「これからのところでは根本的な面白さを追求する仕事をしてください」
大きなプロジェクトとか、長期間のプロジェクトにいると、正解を探す仕事を続けることになるだろうし、上司の顔色をうかがわざるをいけなくなったりするし、なにより個人は犠牲になるような気がした。
チームから外れた先輩が犠牲だったというわけではないと思うけど、自分がこのまま同じチームで10年働くというのであれば、たぶんそれは不幸だとちらと思った次第です。

 

どうせ生きるなら楽しくいたい。楽しくいるなら、自分として発信したい。自分として発信するなら、力を付けて広く伝えたい。
なんかそういう所信表明的なことを思った、年度末でした。


未来で探します。